2019年11月30日土曜日

 永久(とわ)の季節 ー終わりなき回遊ー (詩)

草の間に居残った夏を
長雨が流してしまった
蟹とバッタが夏を探している

木々に絡み付いていた夏を
すっかり風が吹き飛ばしてしまった
カラスが遊び半分に夏を追いかけている

砂浜に隠れていた夏を
波がさらっていった
夏を探しにきたクラゲは砂浜に置いてけぼり

野分が雨を抱きながら
徹底的に完璧に夏を掃除した

激しい風に飛ばされた蟷螂(カマキリ)が海に飲まれ
砂浜に打ち上げられ骸となると思いきや
蟷螂の命は尽き果てること許されず
羽も鎌もぐっしょり濡れて砂浜を歩き出す
波はおかまいなしに何度も蟷螂をさらう
海を彷徨(さまよ)い片目を失った蟷螂は砂浜に放られ
釣人が打ち捨てたフグの死骸の前に転がる
それならばと蟷螂は海に向かい歩き出すが
引き潮が波を海の向こうに連れて行った

黄昏は曇天に彩(いろどり)を授け海に入り込み
雲は混沌な海の端となって漂い続け
サイケデリックな雲は蟷螂を包み込み
蟷螂が命を終わらせることを許さない

数えきれない命を喰らい生きてきた蟷螂
残った片目に数えきれない恐怖が投影され
夜も終わらず朝も終わらない苛まれる日々に
蟷螂は夜も朝もやってこない季節を探し廻る

希望を解き放ち踊り狂う蟷螂
思考が錆び付き石ころになっても踊り続ける
時が無限に周り続ける

瞬間蟷螂はその季節に漂着する

2019年8月18日日曜日

五葷を避ける

五葷が身体に良くない理由は、刺激が強過ぎる。
五葷に共通する効能は「滋養強壮」。
つまり薬と同じ。

「あー、ニンニクの効いたラーメン食べたいなぁ」とか「あー、ネギたっぷりの蕎麦を食べたいなぁ」

身体が弱っているわけでもないのに、毎日食べ物として摂取して、
しまいには薬物依存になってしまう。
肉食も同様で、人の身体には強過ぎる。
ましてや日本の環境や生活に肉のエネルギーは過剰で不必要。

そして、その過剰なエネルギーは不必要な怒りや喜びとなって発露される。
毎日の原因不明な忌々しいニュースがそれを物語っている。

また、不必要な肉食摂取は自分の躯にはねかえり、
癌や糖尿病の危険性をはらんでいる。

この肉エネルギーの過剰さを抑えるのに、五葷の強過ぎる刺激でバランスをとっている。

実際、肉食をしなかった江戸時代には五葷を料理に使うことはほぼない。
玉ねぎは明治になってから食物として扱われていたし、ニンニクなどは特別な食べ物だった。

五葷や肉食を摂取すると、高揚感が高まる…幸せになったような気分になる。
同時に五葷(や肉食)エネルギーが堕ちると高揚感も低くなる。

私たちはこの外から入れられた高揚感の波(不安感やストレス含む)を内側から制御できないので、五葷や肉食を続けてしまい、あげく病気になるか、けんか早くなる。

薬物などの依存症と同じ。

じつは、塩もそうらしい。
「らしい」というのは、塩こそ躯に必須食品なのでは?と思うから…。

スリランカ人に聞いたのだが、山にこもっているお坊さんに食べ物の施しをするときに、五葷抜きの菜食料理は基本だが、も抜く。

一振りの塩で食べ物は美味しくなる

スリランカ人がそう言ったわけではないが、
「美味しい」を知ってしまうと、もっともっとの欲求と依存になるからなのだろうか。
たしかに、肉も五葷も美味しい…らしい。

拙著は肉や五葷を食べないのでわからないが、塩は選んでいる。

2019年1月22日火曜日

肉を喰らうヴィーガン

一般的に「ヴィーガン」とは「お肉を食べない完全菜食の人」と言う認識が強いと思う。
「サーカスに動物を使うなんてもってのほか…ダメでしょ」と言う認識は薄い。

「ヴィーガン」はベジタリアン同様、食生活のカテゴリーでしかない。

そこが、とても残念。

食生活など…どうでもよくないがどうでもよく、ヴィーガンは自分の中で「カッコいい」を貫く生き方だとワタシは思っている(全然楽しくないが…)。

肉食という最大の暴力に抵抗するために食生活での完全菜食の表現が大事なことは言うまでもないが、ソレはひとつの方法であってヴィーガンの生き方の重要な部分ではない。

なぜなら、ヴィーガンと非ヴィーガンは食べるモノは違っても自分の腹を満たすために喰うこということであれば、少なくとも食事の目的は同じだと思う。

だから、「喰う行為」自体を考え直したいと思うが…腹が減る。。

じゃあ、「喰う」ことを根本的に見直そうと思って、
ヴィーガンとして理想的な喰い方があるか、と考えたことがある。

ワタシタチ人間は、全く罪の無いイキモノを虐待し彼らの生きる権利を剥奪し、あげく食べるために惨殺し肉塊にする。コレを罪と言わずしてなんという。

自分はヴィーガンだから…この連鎖は関係ないとは言えない。

ヴィーガンは、この不条理が判るだけに怒りもわいてくるし、なにより辛くて哀しい。
この暴力を止められない以上、われわれヴィーガンもこの不条理連鎖に加担してると言わざるえない。

だから、あえて罪を喰らう。つまり、あえて肉を喰らう。

腹を満たすために喰うのではなく、泣きながら肉を喰う。

「ごめんなさい」くらいではまだまだ…

「愛」で喰う。

ワタシのカラダの一部になったとき、彼らが光に還ることができないのか…と。

例えば、自分のとても大事な…大好きな…愛してやまない…ヒトが
そのヒトが自分より先に亡くなったら…
哀しくて、哀しくて、一緒に逝きたかったと思うが、そうもいかず…
愛するヒトの肉片を切り刻んで喰らうことはできないけど、骨をこっそり持ち帰り
自分の身体の一部となってくれないか…と骨をそっと口に入れるかもしれない

気味が悪いという人がほとんどかもしれないが
自分の一部のように思っていたヒト(イキモノ)だったら、そうしたくなるかもしれない
「喰う」という行為をそれくらい高めることができたら、
不条理連鎖の肉塊をも喰らうことができると思った。

しかし、

実際は、スーパーに並ぶパック入りの肉を見るだけで目眩がし、
間違って肉が口になど入ってしまうと、あのおぞましい味が身体中を駆け巡り、吐いてもなお気分が悪く息もできなくなってしまう。
焼き肉等の臭いもまったく同じで思考が止まる。

つまり、肉塊に対して「気持ちが悪い」と思うわけで
つまり、あの可愛いイキモノだった「肉塊」を愛おしいと抱きしめることなどできない
つまり、「ごめんなさい」と言いながら食べることすらできない

屍たちに申し訳がたたない。

だから、

ワタシは彼らを喰らわずに「ごめんなさい」とつぶやき、
腹が減るから、腹を満たすために完全菜食をする

ヴィーガンが肉を喰らうときは、
腹を満たすための食事をしなくなったときかもしれない。

2019年1月20日日曜日

ヴィーガニズム

ヴィーガニズムって何?と聞かれたとき(聞かれたこともないが)、
「現代社会でアヒンサー(※)を実践しながら妥協した生活をし、矛盾に満ちた人生をおくること」と考えるが、実際そんなふうには答えずに
「弱者からの搾取を避けたい…生活かなぁ…」
なんて適当に答えるだろうと思う。


生き方としてヴィーガニズムを実践するキッカケは個々それぞれだと思う。

ヴィーガニズムを真面目にやればやるほど、
狂いそうになる、壊れそうになる、死にたくなる。
いや、実際、
狂うし、壊れるし、自己消滅しかけて周りを心配させてしまう。
周りを心配させているようでは、ヴィーガニズムどころではない。
(誰だってどんな人だって、その人のことを心配してくれる人間関係がわずかながらでも残っている)

ヴィーガンは自立してこそヴィーガンだろうし…

もちろん、自立とは人間関係を断ち切るのではなく、
自分の生きる力を育てることで自己消滅でもない。

自立するために、自分と向き合うことはしばしばある。
生活が矛盾に満ち過ぎて、妥協ばかりを自分に強いるから
「これでいいのか」と向き合い過ぎて、
ついつい闇に堕ちてしまう。
そして、壊れることもある。
壊れるのは依存心や我欲によるところが大きい。
そういう闇に隠されているモノをひとつずつ光のモトに連れ出してあげる

光とは愛。
自立とは愛の力を育てること。
ヴィーガン = 愛の人

そんなことを考えると「ワタシはヴィーガンです」なんておいそれと言えないが、
そうありたいと願う。
だから、何かのひょうしに闇に堕ちるが、
必ず還ってくると自分を信じてあげるようにしている。

ヴィーガンでよかった。
幸せ感など全くない。
それでも、ヴィーガニズムを選んでよかったと思う。

※アヒンサー:生き物を殺したり害したりすることを禁止するという宗教的教義の行動規範

2018年11月4日日曜日

エフィリズムとブッダ

ワタシなりにエフィリズムを考えてみた。

アンチナタにも分類できるらしいが、独立した考え方で、「生きているモノの知覚意識は、最大の悲劇」という考えが基になっている。
「生命讃歌」と真逆なので、「LIFE」を逆さにして「EFIL」と名付けられている。

気の効いた名付け方だなぁ…とセンスを感じた。
また、仏教の「四苦八苦」を思い出した。

四苦八苦ー幸せだなぁとか気持ちいいなぁとか思っても最終的には辛かったり苦しんだりしてしまうーつまり「生きるってことは苦しいことだらけ」がブッダの人生観だ。
手塚治虫サンの漫画「ブッダ」を読んだとき、「苦」に悩み続けるブッダに共感して、ブッダが大好きになった。

2500年昔にブッダが
「人生は苦しむことだらけで大変だけど、実は救いがあるんだよ」
「その救いをボクでも見つけることができたんだ」
「苦のさきには希望があるんだよ、みんなも到達できるよ、その至福を一緒に探そうよ」
と言ったかどうかは判らない。

とにかくブッダは真面目に「苦」について悩みに悩み抜いてそれでも悩んで、苦は解決したりできるものではないという感覚に到達。そのとき、苦の悩みのグルグルループが打ち破られ、彼に別人格というか本来の人格(愛の人)が生まれた。


「愛の人」になった彼は、万人に希望を与え続ける人になった。彼の発する、まったりとした癒しの「オーラ」の威力は半端無かったろう。(と言っても、そのオーラは優しくて微細で大きすぎるので、一般的にはオーラを感じることができなかったとは思うが…)

リアル感で彼は「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」だったと思う。

ブッダは、苦について世界でいちばんたくさん考えた人だから、もちろん、最高級のエフィリストでアンチナタ思考である。
アンチナタについては自分に息子が居るからこそ、そのあたりをリアルに苦しむブッダが、大好きだ。

しかし、ブッダは弟子にすらヴィーガニズム的生活を強いてはいない。
2500年昔の社会や文化にもすでに被差別社会や区別思考はあったけど、弱者から徹底的に搾取するような時代ではなかった。

もちろん、ブッダはヴィーガニズム的生活は大事だと思っていたが、人々が「苦」からの脱却を悟りさえすれば自ずとヴィーガニズム的生活になると判っていた。それこそユートピアだ。彼はわざわざ戒律などつくらない。愛の人だから…。

愛の人は戒律はつくらない。

ブッダが苦の先に至福があることを悟り、人々に希望を与えて…2500年たった。

ユートピアはできていない。それどころか、奪い合いがひどい世界になっている。

2500年間、人々は苦は置き去りにしたまま、希望と至福だけに興味を示し、形だけの至福に満足してしまう世界を作り上げてしまった。

ごめんなさい、ブッダ。


でも、あなたが大事だと思っていたヴィーガニズム思想に気づいた人たちがいて、ソレを貫こうとして、社会との乖離や矛盾にぶちあたり続けている。ぶちあたってもぶちあたっても諦めなかった。
「どうしてだろう?」「なんでだろう?」
考えて考え抜いたら、エフィリズムに行き着いた。

「生きていることは苦である。なぜなら知覚感覚があるから…」
「この苦を感じる知覚感覚こそ最大の悲劇」

エフィリズムは、「現代に生きるクソ野郎どもめ、さあ、この最大の悲劇をどうする?」と私たちに問題提起をしてくれている。
いかにも終末論的問題。この時代に相応しい。

しかし、現代社会には、もうブッダのような「愛の人」は出現しない。
ヒーローにお任せの時代ではナイから、私たちのような一般ピープルがどうにかしなきゃならない。だいたい問題提起も一般ピープルからだ。

ヒーローはいないけど、リアルブッダのような…「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」は、その気になってちょっと見渡せばけっこういる。

ただ、「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」は、基本的に何もしない…。だから、もしかすると、現実的には本人は孤独感満載かもしれない。

ワタシは、「居てくれるだけでよい人」ではないし、そんな器を持ち合わせていない。
でも、そんな人を支える小さな人になれればと思う。
そのために「エフィリズム」の先にあるものを考え続ける「クソ野郎」になりたい。

2018年10月26日金曜日

星の子守唄 (詩)

 たゆたふ魂を抱え
 軽妙なバランスで闇に浮かぶ慈愛の星に
 恩送りのために生まれ落ちてきた
 我々は我先にと生まれ落ちてきた

修羅たちは、
蒼い山を奪い合い、碧い海を奪い合い、
青い空を奪い合い、薄青の水まで奪い合う。
修羅族は次々とアオ色にラベルを貼っていく。
ワタシはワタシのラベルをさがす。
ワタシも修羅。
アオ色は輝きを失い、この世から全てのアオが消える。

朱色に昇り緋色に沈む太陽も、
深紅の鼓動を打ち流れる血潮も、
赤子も赤心も修羅たちに喰い尽くされる。
ワタシは生命力(いのち)を喰うために、咲き乱れる海紅豆に情熱をさがす。
ワタシも修羅。
アカ色は輝きを失い、この世から全てのアカが消える。

皐月の麦畑、向日葵、黄金に輝く銀杏の葉、地に降り注ぐ陽の光、黄昏に浮かぶ月、夜の帳に瞬く星、
修羅たちは金色だったものを嘘色に塗り替える。
ワタシは生きるための希望を探す旅に出たが、黄泉の国も修羅だらけ。
ワタシも修羅。
キ色は輝きを失い、この世から全てのキが消える。

輝きを奪われた色たちは、永遠に影としてこの世に縫い付けられ、修羅たちの餌食となり、この世はついに闇となる。
ワタシも修羅。
修羅たちは闇夜を闇にする努力を惜しまない。

凡夫はこの星の責務も明日の義務も放棄して、吾の好奇心を満足させるために修羅と化す。
ワタシも修羅。
絹を身に纏い、毛皮の敷物に座し、象牙の箸で肉を喰らい、この星に生まれ落ちた喜びを忘れ、恩送りも忘れ、宴に酔いしれる。

 たゆたふ魂を抱え
 軽妙なバランスで闇に浮かぶ慈愛の星に
 恩送りのために生まれ落ちてきた
 我々は我先にと生まれ落ちてきた

 くたばりかけてしまった慈愛の星は
 いつかいつかいつの日か
 修羅たちが慈愛に満ちる日を信じ
 彩に輝きを与え続け
 息も絶え絶えに唄い続ける

 木霊が星の唄を抱え走り続ける

2018年10月23日火曜日

義弘公詣り(妙円寺詣り)

鹿児島では、10月に「妙円寺詣り」という変なイベントが開催される。

何が変かというと…

「妙円寺」という「お寺」に詣ると言いながら、実は「徳重神社」という「神社」にお詣する。

宗教観のナイ日本人とは言え、変過ぎる。

内容は「関ヶ原合戦の恨み節」イベント。
関ヶ原合戦の前夜を記念して、旧暦の9月14日に、鎧武者の格好をした行列とともに、数キロもしくは20kmを練り歩く。

むかしは、お武家さんの家系だけに許された行列行進だったが、少子高齢化で武士だ農民だと言っていられなくなり、外人さんでも女子どもでも歓迎している。

とは言いながら…

このイベントの支度揃えや打合せ時期になると、武士の生き残り子孫の大御所がよろよろと…大いばりで出てきて、兜の被り方がなっていないとか、並び方がよくないとか、お辞儀の仕方がダメだとか…子ども相手にきぃきぃと怒鳴り散らす。


「武士は嫌いだ」とつくづく思わされる時期。

さて、この「妙円寺詣り」というなイベント。
武士の子孫たちだけが好き勝手にやっていた頃は、夜中を通して歩いていたらしいが、教育のためにと学校が参加するようになり、昼間に歩くようになった。
ワタシも小学生のころ、残虐非道な歌詞が綴られた「妙円寺詣り」の唄を唄わせられ、
20kmを歩かされた記憶がある。疲れ果てたが、小学生だったので、その歌詞の意味などさっぱりわからなかったことが不幸中の幸い。

そのうち、徳重神社のある行政区の主導(伊集院町時代から合併後の日置市)となり、10月の第4日曜日に開催、学校は自由参加になったので、ワタシはバカみたいな行進から解放された。

しかし、今年は業務上、地域の子どもたちと一緒に御詣りすることになってしまった。
嫌だった。しかし、子どもたちのことを思うと避けられなかった。
だから、調べた。

判ったことは
・島津義弘公の武勇に対して御詣りする祭り
・関ヶ原合戦の「敵中突破」(義弘公の家臣の捨身の精神)が伝説になりやすい
 →「敵中突破」伝説は、日清日露や太平洋戦争の若者の意気を挙げる話に利用されたのではないか?(話されている内容と事実が違う)
・「妙円寺」は廃仏毀釈の11年後に復興しているのにも係わらず、寺号のついた「妙円寺詣り」について寺にはなんの打診も無い
・「徳重神社」は廃仏毀釈で焼かれた「妙円寺」跡に2年後に創建、妙円寺にあった義弘公の木像を御神体にした(木像は寺が焼かれるとき檀家の方が必死に護ったモノ)
 →義弘公の木像は妙円寺に返却すべき

こんなことは地元の歴史家は大昔から超知ってる。
知ってるのに知らないふりして何十年も「徳重神社」への「妙円寺詣り」を続けている。
ぱ〜としか言いようがない。情けない。

ある郷土史家に「変じゃナイですか?」と聞いてみた。
「たしかに変だけど、いまさら変えられないよ」の一言。

が〜ん

「せめて、名称を『義弘公詣り』とそのものズバリにしてはどうですか?」
「全国発信してるから、いまさら変えられないよ」の一言。

が〜ん

「神社もお寺も関係ないようだし、本来の旧暦行事から市民参加型で10月第四日曜の行事にしているなら、ハロウィンも一緒にして、武者行列にいろんな仮装で行列行進してみてはどうですか?」と斬新な案をだしてみた。
「……」(回答はなかった)

そのほうがどれだけ楽しい祭りになるだろう…。

しかし、今年はその想いは胸に秘め、とにかく子どもたちにこの御詣りの意味や意義を伝えて一緒に歩くことが業務。

いままで、3週間毎日(合計18回)、90分の練習時間だったのを
ことしは、1週間に2回(合計6回)、30分に縮小した。それで充分。

30分に縮小することで「武士の生き残り子孫の大御所」がお話する時間をなくした
そのかわりワタシの説明の時間を5分もらってパワポで子供用にアニメを駆使し、妙円寺詣りと言いながら徳重神社に詣ることを伝える一方で、義弘公の知られざる優しさや偉大さを伝えて、こどもたちに彼を身近に感じてもらった。
子どもたちは大喜びだったし、練習時間の縮小は保護者にも感謝された。

しかし

プレッシャーや理由の判らないクレームなども…来た来た来たぁ〜だった(涙)
ガチガチの郷土史家やヨロヨロの武家の子孫たちの臭いがプンプンした。
正々堂々と意見も言えない輩どもだ

「無視するに限る」という結論に達し

御詣りの当日は「徳重神社」だけでなく、「妙円寺」にも詣ることにした。
またもや「今までやったことがないので…妙円寺に詣るのはダメ」
ダメダメが来たぁ〜だった

しかし

こどもたちにちゃんと教えているので、子どもたちは「どちらも御詣りした方が良い」と結論を出している。

ワタシは洗脳したわけではない。

ガチガチ、ヨロヨロの重鎮たちは、黙ったまま、人の足をすくって倒す技に長けている。
とにかく、子どもたちにとって楽しくない御詣りをしないように…と願うだけ。

練習日はあと2回。
行事は10/28(日)