2015年7月2日木曜日
原発が壊れて
肉食を続けている人々は大別して二種類。
良心が咎めながらも大規模工場畜産のお陰で辛い真実を見ずに済むので普段から誤魔化しながら生きている。
片や肉食の毒が回って最終的な末期症状を呈し、善悪の区別がつかない状態になり、血を見ても何とも思わないばかりが、逆に興奮し、血を見る娯楽や狩りを好む者。
そして、段階をふんで、人間は、とんでもないことになってる。
次の段階は、カンニバル
修羅の末期的世界。
★★★ ★★★ ★★★ ★★★ ★★★
むかし、むかし、いろんな動物たちが、この星に生まれてきたいと思った。
太陽の光を浴び、青く光る地球は美しい。
そして、せっかく、やっと、地球に生まれた、動物たちを待つ運命は
人間による、裏切りと殺戮 だった。
心やさしい動物たちの瞳は涙があふれた。
青く光る地球。
地球の海は動物たちの痛みと哀しみの涙でできていた。
それでも、ヒトが慈愛を取り戻せるようにと
動物たちは、なんども、なんども、チャンスを与えた
裏切られても、裏切られても、ヒトを信用した。
なんども、なんども、つぶらな瞳で、見つめてくれた。
でも、ヒトは、慈愛にあふれる彼らを
なんども、なんども、残忍な方法で、殺した
ある日、動物たちが、神様にお願いした。
もう、わたしたちが、美しい地球に、生まれてこれないようにしてください。
原発が壊れた。
原発から、毒が流れた。
もう、この星に生まれてきてはダメだよ。
ヒトが作った毒。
ヒトは自業自得。
動物たちも、原発の毒といっしょに死ぬ。
もう、この星に生まれてきてはダメだよ。
仲間にそういって、死んでいく。
それでも、肉食にしがみつくヒトは、最期の肉片の切れ端まで、奪い合う。
動物たちの肉片がなくなれば、ヒトの肉片がある…
どす黒い血は海へと流れ出す。
ヒトはヒトに食べられる順番を待つ。
もう地球は青くない。
★★★ ★★★ ★★★ ★★★ ★★★
嫌だな。
我々の祖先の時代から、それこそ天文学的な数の犠牲者数になるであろう憐れな動物達の魂にしてきたことに対して、必ずやその報いの日が来ることを覚悟しておかねばならぬ。何人(なんびと)たりともこの因果応報の法則からは逃れられない。
肉食産業:多くの生き物の犠牲を巻き込んだ「業づくり産業」
因果応報
ヒトは何度も、何度も、そうしてきたはずなのに。
良い行い、悪い行い、その報いがあるという。
人がする行いで、良い行いなどあるのか?
ほとんどの人は生まれながらにして、業を背おって、うまれてくる。
たとえば、無償で病人や肢体不自由の方や精神疾患の方の世話をさせてもらったとする。
それは、良い行いでもなんでもない。
みずからの業落としに過ぎない。
利己的行為ではないが、
利他的行為でもなんでもない。
ただの業落し。
肉を食いながら、世話をする
業を作りながら、業落しする
ありがたや、ありがたや
せっかく、業落しのできる地球に人生をもらったのに
肉食いは人生のトラップ。罠。
余計な肉も増えれば、新たな業も増える。
それに気づくことさえない。
気づいたとき、
振り出しにもどれればいいが…。
愛にあふれた動物達も疲れた。
悲しいことだ。
私とて、この因果応報の車輪の中で、もがいている。
この車輪の中で、廻って、廻され、ボロ雑巾にもならないくらい、
ぼろぼろになっても、業の炎に燃やされ、生かされているから、辛い。
哀しくて、哀しくて、涙があふれるが、こんなしょぼくれた涙では業の炎を消すことはできない。
業の炎を消す動物達の愛の力が、この世から消えかけている。
「業づくり産業」が根こそぎ、持って行った。
犠牲者の肉は死ぬ間際の怒り、絶望、悲しみ、怨み、憎しみ、痛みの感情を
全て含んでいて、それらが全部そっくりそのまま人間の体の細胞の一つ一つに
移し替えられる。人の性質は、肉食を続けることで次第に変わって行く。
ちょっとしたことで切れ、利己的になり、執着し、欲に走り、争いや荒々しいことを好み
血を見てもちょっとやそっとじゃ驚かなくなり、もともと持っていた慈愛の魂が
穢れた膜で覆い尽くされ、気付いたときには別のものに変貌していることになる。
ただし、それは自分では気づかない。
気付いた者達はそれを恐れている。
二極化が非常に速い速度で進んでいる。
あな恐ろしや。
2014年7月10日木曜日
五葷はなぜ悪い
五葷(ごくん)とは、ネギ・ニンニク・ニラ・ラッキョウ・アサツキ(ワケギ)の玉根菜の5種類で、現代では玉ねぎも含むらしいので6種かな?
本来、お坊さんたち(※1)は、魚肉類に加え、上記の五葷も食さないそうです。
お坊さんたちが、魚肉類を食さない理由を調べてみると、ヴィーガンの菜食の理由とまったく同じ。ビックリしました。下記は、『精進素食について』からの抜粋
※1) 日本のような僧侶の肉食妻帯は 他の仏教国では一般的ではない。
およそ活動の霊を持つ動物類はみな天から与えられた生命を持っている。生きんとする本能は人間と少しも変わらない。与えられた天寿を全うしたいことも人間と同様である。
孟子は「その生けるを見てはその死を見るに忍びず。その声の哀しきを聞きてはその肉を喰らうに忍びず…」と言っている。
心ある人は生まれるを喜びとし、死するを哀しみとする。動物の殺されていく哀しみの鳴き声を聞いてその肉を食すことはできない。故に君子は包丁を使う場所から遠ざかるのである。お釈迦様も五戒律に殺生をもって首(かしら)とし、なまぐさもの(魚介・獣肉など。また、それを使った料理)の食を断っている。
つまり、我々の同胞を殺して喰らうなどと、かわいそうで、とてもできない。人がする行為ではないと言及している。
君主は、さすが人の上に立つだけあって、そのあたりの心の機微もあるから肉食などできない。そうでなければ、会ったこともない民衆のための愛ある政治などできないだろう。
君主による愛ある政治も中国で言えば、堯舜…文王あたりまでだったかもしれない。時代が進むにつれ民衆の心が修羅化して、愛ある君主の統治だけでは、浸透しなくなったのかもしれないし、同時に君主の心もどんどん落ちぶれていく。
そして肉食三昧の君主たちに都合が悪いので、愛ある君主の時代はなかったかのように本来の君主時代は「神話時代」とされ、「理想は理想、実現は不可能」戯言とされてきた。しかし、「神話時代」の堯も舜も文王も実在した。
歴史は勝者(肉食三昧の君主たち)の視点で書き換えられてきたので、「弱者をいたわる」真の気持ちなど、徹底的に踏みにじられた。孟子が言う「動物は食べ物ではない」というような動物愛護精神など表舞台には出て来れなかっただろう。
さてさて、20世紀になって、中国の『張光壁』という師が、お弟子さんたちに『精進素食』をすすめている詩があり、ヴィーガンにとって興味深いので下記に紹介する。
精進菜食をすすむ
修道はすべからく口を清めることを要す
異類を見よ
捕われるところを
或(あるいは)は驚き逃げ、或は悲しみいななく
ついに脱(のが)れることあたわず
殺されていく場面に臨んで
観るも心は傷(いた)まし
臓腑(ぞうふ)をえぐられるも双目(そうもく)は閉じず
頭を断たれるも両眼は凝視せん
意(こころ)ある人には遭い難し、恐懼(きょうく)の心あらんや
情を分つこともなかりき
魚は腹を割(さか)かれても尚(なお)遊(およ)ぎ
蟹は鍋に煎らるも尚もがかん
君子はすべからく庖厨(ほうちゅう)より遠ざけと
孟子すでに解きあかせり
その死する哀しき声を聞きてその肉を 食せざるは佛の云う慈悲の行なり
異種の類いといえども
これ皆ラウム(※2)の霊なりき
吾が男女等の賢徒に望む
速やかに精進素食をせんことを
※2) 創造神のこと
2本足なら親以外、4本足なら机以外、なんでも食べるという近代の中国において、一生懸命、殺生はダメだと説いている。「孟子の頃から言っている」ということは、中国は昔からそれだけ肉食の横行がすごかったのかもしれない。(中国は、肉食しなくても食べるものがたくさんあるのにもかかわらず…ということでもあるだろう)
単なる己の「欲」のために、生きとし生けんとする「命」を断ってまで肉食をするという行為が「罪」だということは判る。しかし、なぜ、植物である「五葷」を嫌うのであろう?そのあたりがよくわからなくて「自分の体で実験」と思って、五葷を数ヶ月断ってみた。そして、コレくらい断ったら、五葷エネルギーも体から排出されているだろう頃に、ニンニクやタマネギを食べてみた。
いやはや…。ビックリ
昔、間違って「肉」を口にしたときエネルギーの強さにビビったが、アレ以上である。五葷エネは、頭の中に台風と竜巻がいっしょに起こったような「グルグル」だった。
肉のときは、肉の種類によって、体の一部分で台風が起こったような感じだったけど、五葷エネはすごい…が…体感して、いいエネルギーとは思えなかった。
五葷は「健康に良い」とか「パワーがある」とか言われているけど、あのパワーは、絶対に体によくないと感じた。現代人は、化学物質や過剰な砂糖を接種し過ぎているので、それを中庸に引き戻すのに、五葷や肉類パワーが必要なのかもしれないが、対処療法に過ぎない。
(病気になって病院に行けるお金のある人は、経済社会に貢献できる。社会が人を「長引く病気」にさせているのは「経済至上主義」の政策の一端)
実験しても五葷エネは、ヴィーガンにとって、体にいいとは思えなかった。
五葷は精力作用があるとも言われているので、僧侶たち修行中の身にはよくないとは思うが、肉を嫌うのに理由があったように、五葷を忌み嫌うのにもなにかしら理由があるはず…。
ありました。
同じく『精進素食について』からの抜粋
…(省略)…伝説の由来は、後天の八卦(※3)を描いた周の文王(※4)が未だ帝座(皇帝がすわる席)にあらざるとき、あまりにも得(とく)が高きゆえ、当時の王后(おうごう=皇后のこと)が嫉妬のあまり、文王の長男を暗殺、その肉で五つの肉饅頭をつくった。そして、文王を召し、コレを食べさせて罪に陥れようとした。食さなかったら玉旨(ぎょくし=王の意図)に叛(そむ)き、食したら人倫の大逆を責めんとしたが、文王は先見の明があって、それを予知し菜食の饅頭を五つ懐(ふところ)に忍ばせ、妃から強いられた饅頭を後園(こうえん)に埋め、代わりにこしらえた(菜食の饅頭)を食した。と言われる。
その人肉饅頭を埋めた後園から芽が出て五種類の野菜ができたと伝えられる。それがこの五種類である(五葷のこと)。この五種類の玉根菜には特別に他にない刺激性の悪臭があるのも此れが故と思われる。
※3)易経の基本の陰陽五行の根本的な考え方。これが印欧に渡り、アーユルヴェーダや西洋の星占いとなる。
※4)文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年-紀元前1056年)
本来、お坊さんたち(※1)は、魚肉類に加え、上記の五葷も食さないそうです。
お坊さんたちが、魚肉類を食さない理由を調べてみると、ヴィーガンの菜食の理由とまったく同じ。ビックリしました。下記は、『精進素食について』からの抜粋
※1) 日本のような僧侶の肉食妻帯は 他の仏教国では一般的ではない。
およそ活動の霊を持つ動物類はみな天から与えられた生命を持っている。生きんとする本能は人間と少しも変わらない。与えられた天寿を全うしたいことも人間と同様である。
孟子は「その生けるを見てはその死を見るに忍びず。その声の哀しきを聞きてはその肉を喰らうに忍びず…」と言っている。
心ある人は生まれるを喜びとし、死するを哀しみとする。動物の殺されていく哀しみの鳴き声を聞いてその肉を食すことはできない。故に君子は包丁を使う場所から遠ざかるのである。お釈迦様も五戒律に殺生をもって首(かしら)とし、なまぐさもの(魚介・獣肉など。また、それを使った料理)の食を断っている。
つまり、我々の同胞を殺して喰らうなどと、かわいそうで、とてもできない。人がする行為ではないと言及している。
君主は、さすが人の上に立つだけあって、そのあたりの心の機微もあるから肉食などできない。そうでなければ、会ったこともない民衆のための愛ある政治などできないだろう。
君主による愛ある政治も中国で言えば、堯舜…文王あたりまでだったかもしれない。時代が進むにつれ民衆の心が修羅化して、愛ある君主の統治だけでは、浸透しなくなったのかもしれないし、同時に君主の心もどんどん落ちぶれていく。
そして肉食三昧の君主たちに都合が悪いので、愛ある君主の時代はなかったかのように本来の君主時代は「神話時代」とされ、「理想は理想、実現は不可能」戯言とされてきた。しかし、「神話時代」の堯も舜も文王も実在した。
歴史は勝者(肉食三昧の君主たち)の視点で書き換えられてきたので、「弱者をいたわる」真の気持ちなど、徹底的に踏みにじられた。孟子が言う「動物は食べ物ではない」というような動物愛護精神など表舞台には出て来れなかっただろう。
さてさて、20世紀になって、中国の『張光壁』という師が、お弟子さんたちに『精進素食』をすすめている詩があり、ヴィーガンにとって興味深いので下記に紹介する。
精進菜食をすすむ
修道はすべからく口を清めることを要す
異類を見よ
捕われるところを
或(あるいは)は驚き逃げ、或は悲しみいななく
ついに脱(のが)れることあたわず
殺されていく場面に臨んで
観るも心は傷(いた)まし
臓腑(ぞうふ)をえぐられるも双目(そうもく)は閉じず
頭を断たれるも両眼は凝視せん
意(こころ)ある人には遭い難し、恐懼(きょうく)の心あらんや
情を分つこともなかりき
魚は腹を割(さか)かれても尚(なお)遊(およ)ぎ
蟹は鍋に煎らるも尚もがかん
君子はすべからく庖厨(ほうちゅう)より遠ざけと
孟子すでに解きあかせり
その死する哀しき声を聞きてその肉を 食せざるは佛の云う慈悲の行なり
異種の類いといえども
これ皆ラウム(※2)の霊なりき
吾が男女等の賢徒に望む
速やかに精進素食をせんことを
※2) 創造神のこと
2本足なら親以外、4本足なら机以外、なんでも食べるという近代の中国において、一生懸命、殺生はダメだと説いている。「孟子の頃から言っている」ということは、中国は昔からそれだけ肉食の横行がすごかったのかもしれない。(中国は、肉食しなくても食べるものがたくさんあるのにもかかわらず…ということでもあるだろう)
単なる己の「欲」のために、生きとし生けんとする「命」を断ってまで肉食をするという行為が「罪」だということは判る。しかし、なぜ、植物である「五葷」を嫌うのであろう?そのあたりがよくわからなくて「自分の体で実験」と思って、五葷を数ヶ月断ってみた。そして、コレくらい断ったら、五葷エネルギーも体から排出されているだろう頃に、ニンニクやタマネギを食べてみた。
いやはや…。ビックリ
昔、間違って「肉」を口にしたときエネルギーの強さにビビったが、アレ以上である。五葷エネは、頭の中に台風と竜巻がいっしょに起こったような「グルグル」だった。
肉のときは、肉の種類によって、体の一部分で台風が起こったような感じだったけど、五葷エネはすごい…が…体感して、いいエネルギーとは思えなかった。
五葷は「健康に良い」とか「パワーがある」とか言われているけど、あのパワーは、絶対に体によくないと感じた。現代人は、化学物質や過剰な砂糖を接種し過ぎているので、それを中庸に引き戻すのに、五葷や肉類パワーが必要なのかもしれないが、対処療法に過ぎない。
(病気になって病院に行けるお金のある人は、経済社会に貢献できる。社会が人を「長引く病気」にさせているのは「経済至上主義」の政策の一端)
実験しても五葷エネは、ヴィーガンにとって、体にいいとは思えなかった。
五葷は精力作用があるとも言われているので、僧侶たち修行中の身にはよくないとは思うが、肉を嫌うのに理由があったように、五葷を忌み嫌うのにもなにかしら理由があるはず…。
ありました。
同じく『精進素食について』からの抜粋
…(省略)…伝説の由来は、後天の八卦(※3)を描いた周の文王(※4)が未だ帝座(皇帝がすわる席)にあらざるとき、あまりにも得(とく)が高きゆえ、当時の王后(おうごう=皇后のこと)が嫉妬のあまり、文王の長男を暗殺、その肉で五つの肉饅頭をつくった。そして、文王を召し、コレを食べさせて罪に陥れようとした。食さなかったら玉旨(ぎょくし=王の意図)に叛(そむ)き、食したら人倫の大逆を責めんとしたが、文王は先見の明があって、それを予知し菜食の饅頭を五つ懐(ふところ)に忍ばせ、妃から強いられた饅頭を後園(こうえん)に埋め、代わりにこしらえた(菜食の饅頭)を食した。と言われる。
その人肉饅頭を埋めた後園から芽が出て五種類の野菜ができたと伝えられる。それがこの五種類である(五葷のこと)。この五種類の玉根菜には特別に他にない刺激性の悪臭があるのも此れが故と思われる。
※3)易経の基本の陰陽五行の根本的な考え方。これが印欧に渡り、アーユルヴェーダや西洋の星占いとなる。
※4)文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年-紀元前1056年)
うひょぉ〜(涙)
八卦では、五葷が人間の五臓腑に対応しており、五葷は凶悪性を伴うので、それぞれの五臓の真気が破壊されるとしています。
例えば、ニンニクは心臓。ネギは腎臓。ニラは肝臓。などなど
なんで凶悪性なの?って思ってたけど、ふつうに死んだ人のではなく殺した人の肉饅頭から出た芽となると…。いくら野菜とはいえ…食べれないと思ってしまうのは、ビーガンだけではないと思います(涙)
2013年12月4日水曜日
新しい犬がほしい
カナダの原野をさまよい空腹に打ち勝てず、自分の愛犬を殺して食べ、奇跡的に助かったハイカーの最初の言葉が『新しい犬がほしい』だった。
マルコ・ラヴォア氏(44)は、ノタウェー川での3ヶ月間のカヌー・トレッキングを計画。7月中旬に愛犬のジャーマン・シェパードを連れ出発。モントリオールから500マイル以上も離れた場所で熊に襲われ、カヌーを壊されテントごと食料を奪われたが、犬が激しく吠え熊を追い払ったおかげでマルコ氏は命拾いした。リュックの中のわずかな食料はすぐに底をつき、空腹で原野を歩き続けた。そして、あまりの空腹に愛犬を食べようと決意。クマの襲撃から三日目だった。マルコ氏は愛犬を岩で打ち殺し食べ、その後3ヶ月間放浪。
レスキュー隊がマルコさんを発見した時、彼の体重は40キロ(元の体重の半分)にやせ衰えていたうえに極度の脱水症状で、生きているのが不思議なくらいだった。(2013.11.4 online newsより)
このニュースについて、サバイバル技術指導者のケイレブ・マスグレイヴ氏は、「彼がさまよっていたあたりには、木の実や木の芽はほとんどない。愛犬を食べなければ、彼は確実に死んでいたはず。無防備なスタイルで三ケ月も生き延びられたのは奇跡、彼はむしろ英雄」だと言っている。
20世紀初頭、北極点に初到着したスコットや南極点初到達のアムンゼンのような優れた冒険家たちの功績は「犬ぞりにつきる」と言って過言ではない。
人間のために極寒を走る犬たちの知られざるもうひとつの仕事は、自らが食料となること。
鞭打たれながらも走る。途中身ごもりながらも走る。やっとの思いで生んだ子犬は殺され食べられる。ゴールまでの予測がつくと、犬に与える餌がもったいないので元気な犬も殺され食料となる。殺すことを躊躇する隊員たち。しかし、彼らの「殺せない」という感情が、目的達成のための「犠牲」という大義名分で抑え込まれると、躊躇した隊員ですら犬を殺し、解体し、肉にして、腹を満たしていった。
国内では、冬ごもりしなかった危険な熊を雪山に撃ちに行くマタギの話がある。チームを組んで山に入るが、大吹雪で足止めをくらい、ついに食料も底をついてしまう。腹を空かせるマタギたち。するとマタギ犬の飼い主が長年の苦楽をともにした自分の犬を殺し、食料としてチームの皆に提供。腹が減っても飼い主に遠慮して犬に手をかけることができないチームの気持ちを察しての「思いやり」という大義名分の「殺し」だが、美談として語られている。
犬は、種が違えども他者をいったん「仲間」だと認めると、普段はたいして仲が良くなくても、いざというときには必ず仲間を守る。カナダのハイカーの犬にしろ、マタギ犬にしろ、残り少ない最後の食料は人間優先だったろうから、犬の腹に入るはずもなく、犬は相当に腹が減っていたはずで、犬がその気になれば、牙をむき人間を食料とするのは簡単なことだったろうが、犬は決してそうはしない。
殺される瞬間も、殺されてすらも、手を下した人間を「仲間」と信じて疑わない犬の瞳を想像するだけで、胸が苦しくなる。
奴隷解放の父としても有名なエイブラハム・リンカーンが、『わたしは、人間の権利と同様に、動物の権利も指示している。そしてそれこそは、すべての人類が進むべき道である』と言っている。
同じ人間でも性別や人種や階級の違いで、権利が認められなかった時代があったように、権利を拡大することは愛の実践であり、平和につながる。
例えば、強い立場のものが弱い立場のものの生きる権利などを剥奪し奴隷化することは、よくないことだと現代人は知っている。それと全く同じで、動物たちは、「生きる権利」を人間から剥奪され、家畜化(奴隷化)されている。
「人間の権利」と同等の権利がある。しかし、現代の法律では「動物に権利」を認めていない。
山や海で自由に生きようとする動物に、社会は害獣のレッテルは貼っても彼らの命を守ることはしない。
自分の身近にいる犬猫を悲惨な実験道具や食べ物として見ることができないように、その慈愛の目をほんの少しだけ他者に拡げることは困難なことではない。それは他者の権利を認めることで、権利の拡大につながる。そして、そういった人々が増えていくと、地球の未来は平和で希望に満ちていくだろう。
わたしは菜食を実践している。
もしもカナダのハイカーのような立場になったとき、もしくは極度の空腹状態になったとき、「動物は食べ物ではない」という意識と習慣が、私をむやみな殺生から遠ざけてくれるだろう。
マルコ・ラヴォア氏(44)は、ノタウェー川での3ヶ月間のカヌー・トレッキングを計画。7月中旬に愛犬のジャーマン・シェパードを連れ出発。モントリオールから500マイル以上も離れた場所で熊に襲われ、カヌーを壊されテントごと食料を奪われたが、犬が激しく吠え熊を追い払ったおかげでマルコ氏は命拾いした。リュックの中のわずかな食料はすぐに底をつき、空腹で原野を歩き続けた。そして、あまりの空腹に愛犬を食べようと決意。クマの襲撃から三日目だった。マルコ氏は愛犬を岩で打ち殺し食べ、その後3ヶ月間放浪。
レスキュー隊がマルコさんを発見した時、彼の体重は40キロ(元の体重の半分)にやせ衰えていたうえに極度の脱水症状で、生きているのが不思議なくらいだった。(2013.11.4 online newsより)
このニュースについて、サバイバル技術指導者のケイレブ・マスグレイヴ氏は、「彼がさまよっていたあたりには、木の実や木の芽はほとんどない。愛犬を食べなければ、彼は確実に死んでいたはず。無防備なスタイルで三ケ月も生き延びられたのは奇跡、彼はむしろ英雄」だと言っている。
飼い主を助け、ともに極限を生きようとした犬。
その犬を殺し、食べることがなぜ「英雄」なのだろう?
20世紀初頭、北極点に初到着したスコットや南極点初到達のアムンゼンのような優れた冒険家たちの功績は「犬ぞりにつきる」と言って過言ではない。
人間のために極寒を走る犬たちの知られざるもうひとつの仕事は、自らが食料となること。
鞭打たれながらも走る。途中身ごもりながらも走る。やっとの思いで生んだ子犬は殺され食べられる。ゴールまでの予測がつくと、犬に与える餌がもったいないので元気な犬も殺され食料となる。殺すことを躊躇する隊員たち。しかし、彼らの「殺せない」という感情が、目的達成のための「犠牲」という大義名分で抑え込まれると、躊躇した隊員ですら犬を殺し、解体し、肉にして、腹を満たしていった。
国内では、冬ごもりしなかった危険な熊を雪山に撃ちに行くマタギの話がある。チームを組んで山に入るが、大吹雪で足止めをくらい、ついに食料も底をついてしまう。腹を空かせるマタギたち。するとマタギ犬の飼い主が長年の苦楽をともにした自分の犬を殺し、食料としてチームの皆に提供。腹が減っても飼い主に遠慮して犬に手をかけることができないチームの気持ちを察しての「思いやり」という大義名分の「殺し」だが、美談として語られている。
どれもこれも「究極の選択」なのだろうが、これらは単なる「殺し」ではなく、
「仲間殺し」であり重罪…罪は重い。
理由は簡単。「仲間」だから…。
殺される瞬間も、殺されてすらも、手を下した人間を「仲間」と信じて疑わない犬の瞳を想像するだけで、胸が苦しくなる。
★ ★ ★ ★ ★
奴隷解放の父としても有名なエイブラハム・リンカーンが、『わたしは、人間の権利と同様に、動物の権利も指示している。そしてそれこそは、すべての人類が進むべき道である』と言っている。
同じ人間でも性別や人種や階級の違いで、権利が認められなかった時代があったように、権利を拡大することは愛の実践であり、平和につながる。
例えば、強い立場のものが弱い立場のものの生きる権利などを剥奪し奴隷化することは、よくないことだと現代人は知っている。それと全く同じで、動物たちは、「生きる権利」を人間から剥奪され、家畜化(奴隷化)されている。
動物や家畜たちにも権利がある。
山や海で自由に生きようとする動物に、社会は害獣のレッテルは貼っても彼らの命を守ることはしない。
動物や家畜たちは、ショーをしたり、見世物にされたり、
もしくは人間の道具となるために、
もしくは食べられるために生まれてきたのではない。
自分の身近にいる犬猫を悲惨な実験道具や食べ物として見ることができないように、その慈愛の目をほんの少しだけ他者に拡げることは困難なことではない。それは他者の権利を認めることで、権利の拡大につながる。そして、そういった人々が増えていくと、地球の未来は平和で希望に満ちていくだろう。
わたしは菜食を実践している。
もしもカナダのハイカーのような立場になったとき、もしくは極度の空腹状態になったとき、「動物は食べ物ではない」という意識と習慣が、私をむやみな殺生から遠ざけてくれるだろう。
「菜食」は暴力をとめる「食事」であり、
ひとりでしずかに実践できる愛の平和行動である。
2013年10月29日火曜日
狩ガール
「狩りガール」
こんな記事を書くのも、彼女たちのことをお知らせしているようで、決していい気分はしないのだが…。
そうも言ってられないくらいのにぎわいを見せている。 先日、ミニコミ紙に書かせていただく機会を得たので、下記の内容を掲載させていただいた。
野生動物や家畜を屠殺、解体する女子のことを「狩りガール」と言う。
このお嬢さん方のことを「自然派、命に向き合っている」とメディアも紹介。
各地で講演や実演などもしている。
ブログなどで、自身の生活を独特の表現で紹介し、老若男女の多くのファンを獲得。
例えば「普通の女子が鴨を絞めてお雑煮にしたよ」とか「うさぎはかわいい味がした」そのウサギの皮をなめしPARCOに展示して「みんなにみてもらってよかったね、うさぎちゃん」他にも「(猪解体時に)ウルフルズを流すとくじけずに最後までできる」など。
屠殺や解体を楽しんでいるようで猟奇的だと反対する人もいる。
ならば、殺すとき、猟奇的でなければよいのか?
現代の屠場のように機械的に殺すことは?
かわいそうだけど…と心を込めて殺せばよいのか?
20年くらい前から教育現場では、鶏などの家畜を育て、屠殺、解体、食べる「命の授業」を展開している。この最たるものが小学校で行われた「豚のPちゃん」。2年半の間、毎日、名前を呼び世話をすることで「小学生」と「豚」との間に信頼関係ができてしまい、食べれないと子どもたちは悩んだが、結局、Pちゃんを「屠殺場」行きのトラックに載せた。
「かわいそうだけど心を込めて」送り出せばよいのか?
これらの根本には「殺されて当然の生き物」という考え方がある。
殺し方にこだわり、殺すことに慣れることが一般的だと教える社会がある。
「命の区別・線引き」つまり「スピーシズム」教育。度を超せば、過激な「愛国主義者」にもなる。
大河ドラマ「八重の桜」は、銃を持つ女子のカッコイイ演出をして、大和撫子が銃を持つことを正当化した番組。
世の中、殺せ殺せのオンパレード。
一方、人間の良心は「殺生」に心を痛めるようにできている。とくに女性は「命を産み出す」ので、その気持ちは男性より強い。
昨今は、重度の肉食(=殺生)などで良心も曇り、人は自身の心と会話もできなくなってきた。
本来は「殺されてよい命」「殺してよい命」など、ひとつもない。
すべてが、かけがえのない「命」。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
去年から国は「自然にやさしい」というキャッチコピーで「狩猟」講座を開始。若いハンターを増やすことが目的。殺しのどこが「やさしい」のか?
猪や鹿を害獣と差別、駆除する前に、彼らがすめる山にする方が「自然にやさしい」と強く思う。
「動物を殺す事は人間を殺す事と同じ」ー レオナルド・ダ・ヴィンチ ー
こんな記事を書くのも、彼女たちのことをお知らせしているようで、決していい気分はしないのだが…。
そうも言ってられないくらいのにぎわいを見せている。 先日、ミニコミ紙に書かせていただく機会を得たので、下記の内容を掲載させていただいた。
野生動物や家畜を屠殺、解体する女子のことを「狩りガール」と言う。
このお嬢さん方のことを「自然派、命に向き合っている」とメディアも紹介。
各地で講演や実演などもしている。
ブログなどで、自身の生活を独特の表現で紹介し、老若男女の多くのファンを獲得。
例えば「普通の女子が鴨を絞めてお雑煮にしたよ」とか「うさぎはかわいい味がした」そのウサギの皮をなめしPARCOに展示して「みんなにみてもらってよかったね、うさぎちゃん」他にも「(猪解体時に)ウルフルズを流すとくじけずに最後までできる」など。
屠殺や解体を楽しんでいるようで猟奇的だと反対する人もいる。
ならば、殺すとき、猟奇的でなければよいのか?
現代の屠場のように機械的に殺すことは?
かわいそうだけど…と心を込めて殺せばよいのか?
20年くらい前から教育現場では、鶏などの家畜を育て、屠殺、解体、食べる「命の授業」を展開している。この最たるものが小学校で行われた「豚のPちゃん」。2年半の間、毎日、名前を呼び世話をすることで「小学生」と「豚」との間に信頼関係ができてしまい、食べれないと子どもたちは悩んだが、結局、Pちゃんを「屠殺場」行きのトラックに載せた。
「かわいそうだけど心を込めて」送り出せばよいのか?
これらの根本には「殺されて当然の生き物」という考え方がある。
殺し方にこだわり、殺すことに慣れることが一般的だと教える社会がある。
「命の区別・線引き」つまり「スピーシズム」教育。度を超せば、過激な「愛国主義者」にもなる。
大河ドラマ「八重の桜」は、銃を持つ女子のカッコイイ演出をして、大和撫子が銃を持つことを正当化した番組。
世の中、殺せ殺せのオンパレード。
一方、人間の良心は「殺生」に心を痛めるようにできている。とくに女性は「命を産み出す」ので、その気持ちは男性より強い。
昨今は、重度の肉食(=殺生)などで良心も曇り、人は自身の心と会話もできなくなってきた。
本来は「殺されてよい命」「殺してよい命」など、ひとつもない。
すべてが、かけがえのない「命」。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
去年から国は「自然にやさしい」というキャッチコピーで「狩猟」講座を開始。若いハンターを増やすことが目的。殺しのどこが「やさしい」のか?
猪や鹿を害獣と差別、駆除する前に、彼らがすめる山にする方が「自然にやさしい」と強く思う。
「動物を殺す事は人間を殺す事と同じ」ー レオナルド・ダ・ヴィンチ ー
2013年10月9日水曜日
命にむきあう
命に向き合うことは、狩猟であり、肉食であると結論づけて終わりになっている社会がある。
その結論は早急すぎるのではないか?と思う。
下記は、紆余曲折して、ビーガンを選択した「散文」。
いま思うと、こういうのも「命に向き合う」ってことかも?と思った。
拙文ですが、読んでくださるとうれしいです。
幼い頃は、ヒトと動物の隔てがわからない
かわいい牛は食べられるために育てられている
そのことを知った時の驚愕
「お肉食べれな〜い」
「お肉を食べないと大きくなれませんよ」
「いやだ〜」
かわいい牛は食べられるために育てられている
そのことを知った時の驚愕
「お肉食べれな〜い」
「お肉を食べないと大きくなれませんよ」
「いやだ〜」
でも、子どもは肉を食べないことを選択できない。
食卓に出てきたものは
「感謝して、ありがたくいただく」と教えられた。
「牛さんは、食べれれな〜い」
「お肉になった牛さんだから、食べないとかわいそうよ」
「……(TT)…もぐもぐ。。(TT)」
何度も、何度も、毎日、毎日、何も考えずに、お肉食べた。
「かわいい牛さんは、わたしの血となり肉となって、生き返っている」
何度も、何度も、毎日、毎日、何も考えずに、お肉を食べた。
「……。」
何度も、何度も、毎日、毎日、自分を納得させながら、お肉をたべた。
そして、ついに、笑いながら、お肉を食べてた。
ある日、わたしのからだの血となり肉となったはずの動物たちが騒ぎ出した。
「お肉を食べないことを選択できるよ」
あのバラバラの肉片になってしまった仲間たちも
この世に生があったときは、
そよ風やひだまりを気持ちよいと感じたり、
母親から愛撫される喜びや
食事をするときの楽しみを感じていた
わたしたちと同じように…。
「そうだった。もう、お肉を食べるのをやめよう」
わたしは決意し、謝罪した。
屠殺場へ連れられていくとき、どんな気持ちだったろう?
屠殺場で、処刑を待つとき、どんな気持ちだったろう?
殺されるときは、どんな恐怖がおそってきただろう?
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
何度も、何度も、毎日、毎日、謝っても……
わたしたちの罪は消えない。
罪は消えないけど
これ以上、罪を作らないことができる。
ベジタリアンになる。ビーガンになる。
「もう、お肉を食べなくていいんだよ」
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
【命に向き合う映画】
「アースリングス(earthlings)」(95分)
H・フェニックスの声もよいし、なんといっても、モービーの音楽がいい。
この手の記録映像は、間違えば、衝撃的映像で終ってしまいがちだが、音楽の力で観客をひっぱっていく。
監督のショーン・マンソンさん、ナレーターのホアキン・フェニックスさん
音楽のモービーさん、他,製作に関った方々、全員ビーガン。
わたしは、後半部分から、声をあげて、 泣きっぱなしだった。
こんなに慟哭する映画は、初めてだった。
これを、残酷な映像だと言うかたがいたら、
こういうことが、毎日、行われている事自体が 「残酷」なのだと思う。
ぜひ、大切な方と一緒にみてください。
2005年製作
ボストン国際映画祭をはじめ、いくつかの映画祭のドキュメンタリー部門で最優秀賞
監督・製作・脚本:ショーン・マンソン
ナレーター:ホアキン・フェニックス
音楽:モービー
2013年9月23日月曜日
太地町とイルカ漁
『ザ・コーヴ』
これは2009年の『ザ・コーヴ』のトレーラービデオ。
世間を騒がせた<イルカ追いこみ漁>のドキュメンタリー映画。
この映画の舞台となった和歌山県太地町は「古式捕鯨発祥の地」。
問題になった<追い込み漁>は、外洋でイルカの群れを探し出し、水中に大きな音を送りイルカの音波探知機能を撹乱させ、群れを入り江や漁港へ追い込み、入口を塞ぐ猟法。
イルカは殺される個体と生け捕りの個体に選別。
殺されるグループは、仲間の見ている前で1頭ずつ漁師たちにより頭部に銛を打ち込まれ殺される。入り江は瞬く間に血の色で真っ赤に染まる。
(※漁協は2秒で死に至ると言うが、映像を見ている限り、数分以上は血の海でバタ狂っています)
http://www.youtube.com/watch?v=JEdT-ybWFr0
↑埋め込めなかったので、このアドレスをコピペしてください。
<イルカ漁殺し方の矛盾点>が判りやすく解説されています。
さて、生かされる個体は、同町の開発公社が買い取り、国内外の水族館やマリンパークや大学などに学術目的の名分で、300万~500万/1頭で売却。
※イルカ肉は約1500円/kg
(大きな成人イルカを、約500kgとして、骨も体も全部が可食部だとしても75万円/1頭)。
ちなみに、シャチは5億円/1頭での取引の実績がある。(シャチも追い込み漁で捕獲)
◆太地町開発公社の売上高(H22年度)
【売上高】 212,982,582円
学校給食鯨肉売上…20,193,805
商品販売鯨肉売上…18,849,798
◎生鯨販売売上…… 169,909,300
缶詰売上…………… 2,258,109
ソーセージ売上…… 1,292,604
鯨スモークハム売上…… 91,816
その他の売上………… 387,150
学校給食鯨肉売上…20,193,805
商品販売鯨肉売上…18,849,798
◎生鯨販売売上…… 169,909,300
缶詰売上…………… 2,258,109
ソーセージ売上…… 1,292,604
鯨スモークハム売上…… 91,816
その他の売上………… 387,150
『ザ・コーヴ』の上映でますますイルカ漁に風当たりが強くなった言い訳に、太地町は
「古くからの伝統であるのでご理解を求めたい」の町長発言。
しかし、前述の売り上げ高のとおり、生体販売(75%)が主流。
生体販売のための追い込み漁を伝統というのか?
年間数千頭を殺しながら、イルカショーやイルカと一緒に泳ごうなどの癒し系の施設も経営。
同じ施設内でイルカやクジラ肉を提供。
「イルカ、かわいかったわね」と言いながらイルカ肉に舌鼓をうつ観光客。
漁協は「(イルカ漁は)必要な資源で生活の糧」の回答。「イルカはお金です」と本音だが、あの漁法は命の翻弄。
あまりにむごい。
実際、筆舌に尽くし難いほど残酷な屠殺と捕獲には涙が止まらない。大量虐殺と言っても過言ではない。(ピーピーと聞こえるのはイルカの断末魔です)
◆ ◆
先日、インドの環境森林保護省が、クジラ目を「non-human persons」イルカは人類でない人として固有の権利を有していると認め、イルカと人間の種の壁を取り払った。
日本も早急に種の壁を取り払い、水族館や動物園の生体展示の再考を…。
愛すべき隣人たちを家族から引き離し、見世物にする思いつきは人間のエゴのなせる技。とても哀しい。
2013年8月21日水曜日
大事な約束
今からお話しすることは、ヒミツ。
ワタシの大事なおともだちから、こっそり聞いたかお話だから…。
動物には、どの種にも「神」がいます。
イヌの神様や、ネコの神様、ウシの神様がいるのです。
人間の場合、一人ひとりの個人が「自我」という名の神をもっています。
動物たちは、個体としてではなく、集合体としてひとりの「神」をもっています。
それらの神様たちが、大昔、人間の代表と話し合ったのです。
旧約聖書の時代のことです。
ありとあらゆる存在が、人間に希望を託していました。
人間だけが「新しい可能性」を持ち帰ってくれると信じていました。
それほど「古い世界」は停滞していたのです。
これ以上、先には進めないところにまで来ていました。
そこで、動物の神さまたちが、人間に言いました。
「わたしたちは、あなたがたが地上で生き続けられるように、個体として自我をもつのをひかえましょう。」
それを聞いて、植物の神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、動物と人間が地上で生きられるように、感情をもつのをひかえましょう。」
最後に、石ころの神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、一切の意志をもたず、すべての意識を放棄して、あなたがたの材料になりましょう。」
すべては、動物が「自我」を断念したところから始まったのです。
それは大変な犠牲でした。
彼らは人間によせる愛と希望ゆえに、人間を信じてそう決意したのです。
人間が、自分たちは動物よりも進化しているとか、優れているとか思ったとしたら、
それはおそろしく愚かな思い上がりなのです。
動物たちのほうが、人間よりもはるかに高貴で、崇高な精神をもっています。
それゆえに、動物たちは人間を先に行かせたのです。
だから、人間には、動物にはもちろん、植物にも、鉱物(石)にも、つまり地球全体に対して責任があるし、彼らの思いに応えて、果たすべき使命があるのです。
動物たちは、人間が真の自由(新しい可能性)を獲得するまでには、長い長い道のりがあることを知っていました。
動物たちが自我をもってしまったら、肉食(動物たちを食べること)は「共食い」ということになり、人間は果てしない罪を抱え込むことになります。
それを避けるために、動物は自我を断念したのです。
そして、植物は、ひたすら食物や薬物として働けるように、「感情」を断念しました。
しかし、いつかは人間も真実を知らねばなりません。
自由な存在として、この地球をすべての存在にとっての「故郷」となすということです。
「ふるさと再建」です。
それは「個体としての自我の自由」を発揮するということ。
人間は、自分の意志で肉食から離れなければなりません。
けれど、その決意は、一人ひとりの人間の内から生ずるのでなければ意味がないのです。
そうするためには、人間はもっともっと主体性(自我)を育てなければなりません。
そのために「感情を認識の道具にする」ということです。
だからといって、怒ってはいけない、感情的になってはいけない、ということではないのです。感情はいくらでも持ってよいけれど、それを否定しない、押し込めたり、せき止めたりせずに、流していく。感情の流れをせき止めてしまうものが、「自分へのこだわり」です。感情をただひたすら流していって、その感情をてがかりに、自分を知り、世界を知るということ。
感情は、「感じる力」でもあります。
世界に対して、無関心になるのではなく、世界の1つひとつの現象に対して、感情が働き、「自分が感じる」こと。
それを恐れずに、自分の感情を自覚していれば、それによって「自分は何者か」がわかっていく。自分という人間は、何に怒り、何に悲しみ、何を喜ぶのかがわかっていく。
「世界認識」と「自己認識」は同時に起こるのです。
そのとき、人間は、動物、植物、鉱物(石)と約束した使命を果たせるのです。
ワタシの大事なおともだちから、こっそり聞いたかお話だから…。
動物には、どの種にも「神」がいます。
イヌの神様や、ネコの神様、ウシの神様がいるのです。
人間の場合、一人ひとりの個人が「自我」という名の神をもっています。
動物たちは、個体としてではなく、集合体としてひとりの「神」をもっています。
それらの神様たちが、大昔、人間の代表と話し合ったのです。
旧約聖書の時代のことです。
ありとあらゆる存在が、人間に希望を託していました。
人間だけが「新しい可能性」を持ち帰ってくれると信じていました。
それほど「古い世界」は停滞していたのです。
これ以上、先には進めないところにまで来ていました。
そこで、動物の神さまたちが、人間に言いました。
「わたしたちは、あなたがたが地上で生き続けられるように、個体として自我をもつのをひかえましょう。」
それを聞いて、植物の神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、動物と人間が地上で生きられるように、感情をもつのをひかえましょう。」
最後に、石ころの神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、一切の意志をもたず、すべての意識を放棄して、あなたがたの材料になりましょう。」
すべては、動物が「自我」を断念したところから始まったのです。
それは大変な犠牲でした。
彼らは人間によせる愛と希望ゆえに、人間を信じてそう決意したのです。
人間が、自分たちは動物よりも進化しているとか、優れているとか思ったとしたら、
それはおそろしく愚かな思い上がりなのです。
動物たちのほうが、人間よりもはるかに高貴で、崇高な精神をもっています。
それゆえに、動物たちは人間を先に行かせたのです。
だから、人間には、動物にはもちろん、植物にも、鉱物(石)にも、つまり地球全体に対して責任があるし、彼らの思いに応えて、果たすべき使命があるのです。
動物たちは、人間が真の自由(新しい可能性)を獲得するまでには、長い長い道のりがあることを知っていました。
動物たちが自我をもってしまったら、肉食(動物たちを食べること)は「共食い」ということになり、人間は果てしない罪を抱え込むことになります。
それを避けるために、動物は自我を断念したのです。
そして、植物は、ひたすら食物や薬物として働けるように、「感情」を断念しました。
人間が他の動物の肉を食らうのは、まだ真実を見るだけの力がないからです。
肉食への欲求は、真実から目を背けようとする欲求なのです。
動物は、人間と同じで「感情」をもっています。
襲われたり、殺されそうになったり、拘束されたりすれば、当然、恐れや悲しみの感情をもちます。
人間は、肉を食っているようでいて、動物たちの感情を食っているのです。
その感情はヴェールのように、人間の認識の力を覆います。
肉を食べるということは、それだけ自分を「見えなく」しているわけです。
でも、それは、肉食の人たちが「真実」を見ることに耐えられないからです。
肉食への欲求は、真実から目を背けようとする欲求なのです。
動物は、人間と同じで「感情」をもっています。
襲われたり、殺されそうになったり、拘束されたりすれば、当然、恐れや悲しみの感情をもちます。
人間は、肉を食っているようでいて、動物たちの感情を食っているのです。
その感情はヴェールのように、人間の認識の力を覆います。
肉を食べるということは、それだけ自分を「見えなく」しているわけです。
でも、それは、肉食の人たちが「真実」を見ることに耐えられないからです。
しかし、いつかは人間も真実を知らねばなりません。
自由な存在として、この地球をすべての存在にとっての「故郷」となすということです。
「ふるさと再建」です。
それは「個体としての自我の自由」を発揮するということ。
人間は、自分の意志で肉食から離れなければなりません。
けれど、その決意は、一人ひとりの人間の内から生ずるのでなければ意味がないのです。
そうするためには、人間はもっともっと主体性(自我)を育てなければなりません。
そのために「感情を認識の道具にする」ということです。
だからといって、怒ってはいけない、感情的になってはいけない、ということではないのです。感情はいくらでも持ってよいけれど、それを否定しない、押し込めたり、せき止めたりせずに、流していく。感情の流れをせき止めてしまうものが、「自分へのこだわり」です。感情をただひたすら流していって、その感情をてがかりに、自分を知り、世界を知るということ。
感情は、「感じる力」でもあります。
世界に対して、無関心になるのではなく、世界の1つひとつの現象に対して、感情が働き、「自分が感じる」こと。
それを恐れずに、自分の感情を自覚していれば、それによって「自分は何者か」がわかっていく。自分という人間は、何に怒り、何に悲しみ、何を喜ぶのかがわかっていく。
「世界認識」と「自己認識」は同時に起こるのです。
そのとき、人間は、動物、植物、鉱物(石)と約束した使命を果たせるのです。
登録:
投稿 (Atom)









