2017年1月11日水曜日

再度、五葷について。

なぜ五葷が悪いのか、以前のブログに書きました。
http://hot-lava-japan.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

しかし、書いた本人のワタシですが、肉饅頭の件だけでは納得には及ばないのです。
五葷を避ける生活をしていて何かの拍子に五葷を口にしてしまったときのグルグル感は、「五葷は普段食でない」と言い切れるくらいの危ない強さがあるのは確かです。

量や使い方を間違えば毒にもなる漢方があるように、
五葷も薬なのでは?と感じる強さです。
しかし、薬と言っても日常的に素人が扱える程度の薬です。

例えば、
「父ちゃん、最近、疲れが激しくて、夜も寝てばっかし…」と愚痴るかーちゃん。
ニンニクを手にして「そうだ、とうちゃんの今夜のおかずにコレ混ぜよう」

「ウチの息子が風邪で寝込んじゃってね」
「じゃあ、コレでみそ汁作れば?」とネギを渡す。

祝いの日、久しぶりに生魚や生贄のお下がり肉などを食べる時、
「獣肉の臭いは強いからこの臭いのキツい野菜で中和しよう」と料理に使った五葷は、毒消しも兼ねていたのでは?と思います。(健康上、肉は毒(躯に悪い)ですから)

五葷は、それくらい強いのです。
でも、五葷を摂り過ぎて死ぬようなことはないですから、医学用ではなく家庭用漢方だったと思います。

また、五葷の毒消しの仕組みは、摂取した人自身の内蔵を傷つけることによって、火事場のバカ力を出させたと思います。
…と思います。という不的確な表現で申し訳ないのですが、自分の躯での実験でそう感じます。

現代人の多くは、肉も食べれば五葷も食べます。しかも毎食です。
強い薬でも毎回ずーっと飲み続けていると、最初のころ飲んだ量くらいでは効かなくなってしまいます。少ない量だから薬効があるのに、量が多くなると毒にもなります。
病気でもないのに、頭痛薬や風邪薬を毎日毎回飲む人はあまりいないでしょう。

五葷は食べ物ではありません。
五葷は薬です。

だから、健康な人が食べてはいけないのです。



2017年1月8日日曜日

祈り(詩)


春風と花遊びに夢中な幼女(おさなご)の時が止まる。

幼女(おさなご)は瞳を潤ませた子牛に見つめられ、その子があまりにじっと見つめるものだから、自分と牛の違いがわからなくなった。


夕立が走った、

トラックの荷台から、潤んだ瞳が幼女(おさなご)をとらえる
夕立が上がった、
トラックは入道雲に呑み込まれ、うろこ雲が流され、寒空に幼女(おさなご)は待ち続けた。



友は

肉になるために旅立ったと教えてもらった。


友が

クリスマスの皿の中にいた、肉の塊となって。


これは

ありがたくいただく食物だと教えてもらった。


いただきますもぐ……もぐ

幼女(おさなご)は、毎日毎日、泣きながら、食べた。


いただきますもぐもぐ……むしゃむしゃ

乙女は、毎日毎日、悩みながら、食べた。


いただきますむしゃむしゃ……ぱくぱく

少女は、毎日毎日、自分を納得させながら、食べた。


いただきます…ぱくぱく…ぼりぼり…

娘は、毎日毎日、何も考えずに、食べた。


ぼりぼりぱくぱくむしゃむしゃもぐもぐ

女は、笑いながら、お肉を食べていた。


何かを間違ってしまった。


ぼりぼりぱくぱくむしゃむしゃもぐもぐ

ぼりぼりぱくぱくむしゃむしゃもぐもぐ

ぼりぼりぱくぱくむしゃむしゃもぐもぐ


なんてことをしんたんだろう


何度も何度も、毎日毎日、謝った。

涙は雨になり、祈りは風になった。

シトシトビュービュー



初めて幼子を見つけた、大きな瞳。

風に舞う花びらを追う、微笑む瞳。

トラックに乗せられた、哀しむ瞳。

肉片工場に押込まれた、怯える瞳。


潤んだ瞳はもう誰も見つめない。


何度も何度も、毎日毎日、謝り続けた。

シトシトビュービュー

シトシトビュービュー

大雨が恨みを流しても、

大風が間違いを吹き飛ばしても、



シトシトビュービュー

罪は消えない。

2015年10月2日金曜日

カンボジアのKampot動物園

かごしまの平川動物園が、Kampotのゾウと交換をしようとしている動物園の動物の管理状態です。
2015年の9月にKampot動物園を観光客が訪れ、撮影した動画です。

https://www.facebook.com/freekiriandseila/videos/vb.1649247428676944/1653206841614336/?type=2&theater

1~2歳くらいのマレーグマ。錆びた汚らしい檻に1頭でいます。
熱帯の日差しや滝のような雨を遮るものがない、人々の視線から隠れるところもありません。
見ただけでも2か所けがをしていて、後ろ足のけがは罠にかかった時のもののようで、もう治らないかもしれません。この動物園には獣医がいないので手当も受けられません。檻の上から内側に出ている金属棒で目を突いたのが目撃されています。視力を失うかもしれません。

この動物園と鹿児島の平川動物園の動物交換のことは、さまざまなことでニュースになっており、ゾウの動物交換をやめてほしい旨の署名活動もあります。
カンボジアの地元の新聞社もウェブ記事に何日かにわたって掲載もしています。
英語の記事ですが、裏付け資料になります。

新聞記事のURL
プノンペンポスト紙8/24 http://www.phnompenhpost.com/national/elephants-sale-japanese-zoo-opposed
プノンペンポスト紙8/27 http://www.phnompenhpost.com/national/fears-over-zoo-swap
プノンペンポスト紙9/2 http://www.phnompenhpost.com/national/elephants-will-suffer-japan-zoo
プノンペンポスト紙9/25 http://www.phnompenhpost.com/national/elephant-ngo-barred-zoo
クメールタイムス9/10 http://www.khmertimeskh.com/news/15581/teuk-chhou-zoo---s-animals-are-caged-in-a-nightmare/
クメールタイムス9/25 http://www.khmertimeskh.com/news/16220//


まずは、本日10/2、鹿児島市役所にこの「動物交換」をやめてほしい申し入れをしてきます。落ち着いたらアップします。
また、つくしさんのブログでは、長期にわたって、このことに関して情報をアップしてくださっています。
http://ameblo.jp/suginanoko/entry-12075567008.html

2015年7月2日木曜日

原発が壊れて


肉食を続けている人々は大別して二種類。
良心が咎めながらも大規模工場畜産のお陰で辛い真実を見ずに済むので普段から誤魔化しながら生きている。
片や肉食の毒が回って最終的な末期症状を呈し、善悪の区別がつかない状態になり、血を見ても何とも思わないばかりが、逆に興奮し、血を見る娯楽や狩りを好む者。


そして、段階をふんで、人間は、とんでもないことになってる。
次の段階は、カンニバル
修羅の末期的世界。

★★★  ★★★  ★★★  ★★★  ★★★  

むかし、むかし、いろんな動物たちが、この星に生まれてきたいと思った。
太陽の光を浴び、青く光る地球は美しい。

そして、せっかく、やっと、地球に生まれた、動物たちを待つ運命は
人間による、裏切りと殺戮 だった。

心やさしい動物たちの瞳は涙があふれた。
青く光る地球。
地球の海は動物たちの痛みと哀しみの涙でできていた。

それでも、ヒトが慈愛を取り戻せるようにと
動物たちは、なんども、なんども、チャンスを与えた
裏切られても、裏切られても、ヒトを信用した。
なんども、なんども、つぶらな瞳で、見つめてくれた。
でも、ヒトは、慈愛にあふれる彼らを
なんども、なんども、残忍な方法で、殺した

ある日、動物たちが、神様にお願いした。
もう、わたしたちが、美しい地球に、生まれてこれないようにしてください。

原発が壊れた。
原発から、毒が流れた。
もう、この星に生まれてきてはダメだよ。
ヒトが作った毒。
ヒトは自業自得。

動物たちも、原発の毒といっしょに死ぬ。
もう、この星に生まれてきてはダメだよ。
仲間にそういって、死んでいく。

それでも、肉食にしがみつくヒトは、最期の肉片の切れ端まで、奪い合う。
動物たちの肉片がなくなれば、ヒトの肉片がある…

どす黒い血は海へと流れ出す。


ヒトはヒトに食べられる順番を待つ。

もう地球は青くない。

★★★  ★★★  ★★★  ★★★  ★★★  

嫌だな。



我々の祖先の時代から、それこそ天文学的な数の犠牲者数になるであろう憐れな動物達の魂にしてきたことに対して、必ずやその報いの日が来ることを覚悟しておかねばならぬ。何人(なんびと)たりともこの因果応報の法則からは逃れられない。

肉食産業:多くの生き物の犠牲を巻き込んだ「業づくり産業」

因果応報
ヒトは何度も、何度も、そうしてきたはずなのに。
良い行い、悪い行い、その報いがあるという。

人がする行いで、良い行いなどあるのか?

ほとんどの人は生まれながらにして、業を背おって、うまれてくる。
たとえば、無償で病人や肢体不自由の方や精神疾患の方の世話をさせてもらったとする。
それは、良い行いでもなんでもない。
みずからの業落としに過ぎない。
利己的行為ではないが、
利他的行為でもなんでもない。
ただの業落し。

肉を食いながら、世話をする
業を作りながら、業落しする

ありがたや、ありがたや

せっかく、業落しのできる地球に人生をもらったのに
肉食いは人生のトラップ。罠。
余計な肉も増えれば、新たな業も増える。

それに気づくことさえない。
気づいたとき、
振り出しにもどれればいいが…。
愛にあふれた動物達も疲れた。
悲しいことだ。

私とて、この因果応報の車輪の中で、もがいている。
この車輪の中で、廻って、廻され、ボロ雑巾にもならないくらい、
ぼろぼろになっても、業の炎に燃やされ、生かされているから、辛い。
哀しくて、哀しくて、涙があふれるが、こんなしょぼくれた涙では業の炎を消すことはできない。

業の炎を消す動物達の愛の力が、この世から消えかけている。
「業づくり産業」が根こそぎ、持って行った。

犠牲者の肉は死ぬ間際の怒り、絶望、悲しみ、怨み、憎しみ、痛みの感情を

全て含んでいて、それらが全部そっくりそのまま人間の体の細胞の一つ一つに

移し替えられる。人の性質は、肉食を続けることで次第に変わって行く。

ちょっとしたことで切れ、利己的になり、執着し、欲に走り、争いや荒々しいことを好み

血を見てもちょっとやそっとじゃ驚かなくなり、もともと持っていた慈愛の魂が

穢れた膜で覆い尽くされ、気付いたときには別のものに変貌していることになる。

ただし、それは自分では気づかない。

気付いた者達はそれを恐れている。

二極化が非常に速い速度で進んでいる。

あな恐ろしや。


2014年7月10日木曜日

五葷はなぜ悪い

 五葷(ごくん)とは、ネギ・ニンニク・ニラ・ラッキョウ・アサツキ(ワケギ)の玉根菜の5種類で、現代では玉ねぎも含むらしいので6種かな?

 本来、お坊さんたち(※1)は、魚肉類に加え、上記の五葷も食さないそうです。
 お坊さんたちが、魚肉類を食さない理由を調べてみると、ヴィーガンの菜食の理由とまったく同じ。ビックリしました。下記は、『精進素食について』からの抜粋
※1) 日本のような僧侶の肉食妻帯は 他の仏教国では一般的ではない。

 およそ活動の霊を持つ動物類はみな天から与えられた生命を持っている。生きんとする本能は人間と少しも変わらない。与えられた天寿を全うしたいことも人間と同様である。
 孟子は「その生けるを見てはその死を見るに忍びず。その声の哀しきを聞きてはその肉を喰らうに忍びず…」と言っている。
 心ある人は生まれるを喜びとし、死するを哀しみとする。動物の殺されていく哀しみの鳴き声を聞いてその肉を食すことはできない。故に君子は包丁を使う場所から遠ざかるのである。お釈迦様も五戒律に殺生をもって首(かしら)とし、なまぐさもの(魚介・獣肉など。また、それを使った料理)の食を断っている。

 つまり、我々の同胞を殺して喰らうなどと、かわいそうで、とてもできない。人がする行為ではないと言及している。
 君主は、さすが人の上に立つだけあって、そのあたりの心の機微もあるから肉食などできない。そうでなければ、会ったこともない民衆のための愛ある政治などできないだろう。
 君主による愛ある政治も中国で言えば、堯舜…文王あたりまでだったかもしれない。時代が進むにつれ民衆の心が修羅化して、愛ある君主の統治だけでは、浸透しなくなったのかもしれないし、同時に君主の心もどんどん落ちぶれていく。
 そして肉食三昧の君主たちに都合が悪いので、愛ある君主の時代はなかったかのように本来の君主時代は「神話時代」とされ、「理想は理想、実現は不可能」戯言とされてきた。しかし、「神話時代」の堯も舜も文王も実在した。
 歴史は勝者(肉食三昧の君主たち)の視点で書き換えられてきたので、「弱者をいたわる」真の気持ちなど、徹底的に踏みにじられた。孟子が言う「動物は食べ物ではない」というような動物愛護精神など表舞台には出て来れなかっただろう。


 さてさて、20世紀になって、中国の『張光壁』という師が、お弟子さんたちに『精進素食』をすすめている詩があり、ヴィーガンにとって興味深いので下記に紹介する。


精進菜食をすすむ

修道はすべからく口を清めることを要す
異類を見よ
捕われるところを
或(あるいは)は驚き逃げ、或は悲しみいななく
ついに脱(のが)れることあたわず
殺されていく場面に臨んで
観るも心は傷(いた)まし
臓腑(ぞうふ)をえぐられるも双目(そうもく)は閉じず
頭を断たれるも両眼は凝視せん
意(こころ)ある人には遭い難し、恐懼(きょうく)の心あらんや
情を分つこともなかりき

魚は腹を割(さか)かれても尚(なお)遊(およ)ぎ
蟹は鍋に煎らるも尚もがかん
君子はすべからく庖厨(ほうちゅう)より遠ざけと
孟子すでに解きあかせり
その死する哀しき声を聞きてその肉を 食せざるは佛の云う慈悲の行なり
異種の類いといえども
これ皆ラウム(※2)の霊なりき
吾が男女等の賢徒に望む
速やかに精進素食をせんことを

※2) 創造神のこと



 2本足なら親以外、4本足なら机以外、なんでも食べるという近代の中国において、一生懸命、殺生はダメだと説いている。「孟子の頃から言っている」ということは、中国は昔からそれだけ肉食の横行がすごかったのかもしれない。(中国は、肉食しなくても食べるものがたくさんあるのにもかかわらず…ということでもあるだろう)

 単なる己の「欲」のために、生きとし生けんとする「命」を断ってまで肉食をするという行為が「罪」だということは判る。しかし、なぜ、植物である「五葷」を嫌うのであろう?そのあたりがよくわからなくて「自分の体で実験」と思って、五葷を数ヶ月断ってみた。そして、コレくらい断ったら、五葷エネルギーも体から排出されているだろう頃に、ニンニクやタマネギを食べてみた。

 いやはや…。ビックリ

 昔、間違って「肉」を口にしたときエネルギーの強さにビビったが、アレ以上である。五葷エネは、頭の中に台風と竜巻がいっしょに起こったような「グルグル」だった。
 肉のときは、肉の種類によって、体の一部分で台風が起こったような感じだったけど、五葷エネはすごい…が…体感して、いいエネルギーとは思えなかった。
 五葷は「健康に良い」とか「パワーがある」とか言われているけど、あのパワーは、絶対に体によくないと感じた。現代人は、化学物質や過剰な砂糖を接種し過ぎているので、それを中庸に引き戻すのに、五葷や肉類パワーが必要なのかもしれないが、対処療法に過ぎない。
(病気になって病院に行けるお金のある人は、経済社会に貢献できる。社会が人を「長引く病気」にさせているのは「経済至上主義」の政策の一端)

 実験しても五葷エネは、ヴィーガンにとって、体にいいとは思えなかった。
 五葷は精力作用があるとも言われているので、僧侶たち修行中の身にはよくないとは思うが、肉を嫌うのに理由があったように、五葷を忌み嫌うのにもなにかしら理由があるはず…。

 ありました。

 同じく『精進素食について』からの抜粋

 …(省略)…伝説の由来は、後天の八卦(※3)を描いた周の文王(※4)が未だ帝座(皇帝がすわる席)にあらざるとき、あまりにも得(とく)が高きゆえ、当時の王后(おうごう=皇后のこと)が嫉妬のあまり、文王の長男を暗殺、その肉で五つの肉饅頭をつくった。そして、文王を召し、コレを食べさせて罪に陥れようとした。食さなかったら玉旨(ぎょくし=王の意図)に叛(そむ)き、食したら人倫の大逆を責めんとしたが、文王は先見の明があって、それを予知し菜食の饅頭を五つ懐(ふところ)に忍ばせ、妃から強いられた饅頭を後園(こうえん)に埋め、代わりにこしらえた(菜食の饅頭)を食した。と言われる。
 その人肉饅頭を埋めた後園から芽が出て五種類の野菜ができたと伝えられる。それがこの五種類である(五葷のこと)。この五種類の玉根菜には特別に他にない刺激性の悪臭があるのも此れが故と思われる。

※3)易経の基本の陰陽五行の根本的な考え方。これが印欧に渡り、アーユルヴェーダや西洋の星占いとなる。
※4)文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年-紀元前1056年)

 うひょぉ〜(涙)

 八卦では、五葷が人間の五臓腑に対応しており、五葷は凶悪性を伴うので、それぞれの五臓の真気が破壊されるとしています。
 例えば、ニンニクは心臓。ネギは腎臓。ニラは肝臓。などなど

 なんで凶悪性なの?って思ってたけど、ふつうに死んだ人のではなく殺した人の肉饅頭から出た芽となると…。いくら野菜とはいえ…食べれないと思ってしまうのは、ビーガンだけではないと思います(涙)


2013年12月4日水曜日

新しい犬がほしい

カナダの原野をさまよい空腹に打ち勝てず、自分の愛犬を殺して食べ、奇跡的に助かったハイカーの最初の言葉が『新しい犬がほしい』だった。 

 マルコ・ラヴォア氏(44)は、ノタウェー川での3ヶ月間のカヌー・トレッキングを計画。7月中旬に愛犬のジャーマン・シェパードを連れ出発。モントリオールから500マイル以上も離れた場所で熊に襲われ、カヌーを壊されテントごと食料を奪われたが、犬が激しく吠え熊を追い払ったおかげでマルコ氏は命拾いした。リュックの中のわずかな食料はすぐに底をつき、空腹で原野を歩き続けた。そして、あまりの空腹に愛犬を食べようと決意。クマの襲撃から三日目だった。マルコ氏は愛犬を岩で打ち殺し食べ、その後3ヶ月間放浪。 



‎‎
 レスキュー隊がマルコさんを発見した時、彼の体重は40キロ(元の体重の半分)にやせ衰えていたうえに極度の脱水症状で、生きているのが不思議なくらいだった。(2013.11.4 online newsより) 


 このニュースについて、サバイバル技術指導者のケイレブ・マスグレイヴ氏は、「彼がさまよっていたあたりには、木の実や木の芽はほとんどない。愛犬を食べなければ、彼は確実に死んでいたはず。無防備なスタイルで三ケ月も生き延びられたのは奇跡、彼はむしろ英雄」だと言っている。 

飼い主を助け、ともに極限を生きようとした犬。


その犬を殺し、食べることがなぜ「英雄」なのだろう? 

20世紀初頭、北極点に初到着したスコットや南極点初到達のアムンゼンのような優れた冒険家たちの功績は「犬ぞりにつきる」と言って過言ではない。 

人間のために極寒を走る犬たちの知られざるもうひとつの仕事は、自らが食料となること。 
鞭打たれながらも走る。途中身ごもりながらも走る。やっとの思いで生んだ子犬は殺され食べられる。ゴールまでの予測がつくと、犬に与える餌がもったいないので元気な犬も殺され食料となる。殺すことを躊躇する隊員たち。しかし、彼らの「殺せない」という感情が、目的達成のための「犠牲」という大義名分で抑え込まれると、躊躇した隊員ですら犬を殺し、解体し、肉にして、腹を満たしていった。 

国内では、冬ごもりしなかった危険な熊を雪山に撃ちに行くマタギの話がある。チームを組んで山に入るが、大吹雪で足止めをくらい、ついに食料も底をついてしまう。腹を空かせるマタギたち。するとマタギ犬の飼い主が長年の苦楽をともにした自分の犬を殺し、食料としてチームの皆に提供。腹が減っても飼い主に遠慮して犬に手をかけることができないチームの気持ちを察しての「思いやり」という大義名分の「殺し」だが、美談として語られている。 



どれもこれも「究極の選択」なのだろうが、これらは単なる「殺し」ではなく、



「仲間殺し」であり重罪…罪は重い。 

犬は、種が違えども他者をいったん「仲間」だと認めると、普段はたいして仲が良くなくても、いざというときには必ず仲間を守る。カナダのハイカーの犬にしろ、マタギ犬にしろ、残り少ない最後の食料は人間優先だったろうから、犬の腹に入るはずもなく、犬は相当に腹が減っていたはずで、犬がその気になれば、牙をむき人間を食料とするのは簡単なことだったろうが、犬は決してそうはしない。 

理由は簡単。「仲間」だから…。 

殺される瞬間も、殺されてすらも、手を下した人間を「仲間」と信じて疑わない犬の瞳を想像するだけで、胸が苦しくなる。 

★    ★    ★     ★    ★ 

奴隷解放の父としても有名なエイブラハム・リンカーンが、『わたしは、人間の権利と同様に、動物の権利も指示している。そしてそれこそは、すべての人類が進むべき道である』と言っている。 

同じ人間でも性別や人種や階級の違いで、権利が認められなかった時代があったように、権利を拡大することは愛の実践であり、平和につながる。 
例えば、強い立場のものが弱い立場のものの生きる権利などを剥奪し奴隷化することは、よくないことだと現代人は知っている。それと全く同じで、動物たちは、「生きる権利」を人間から剥奪され、家畜化(奴隷化)されている。 

動物や家畜たちにも権利がある。 

「人間の権利」と同等の権利がある。しかし、現代の法律では「動物に権利」を認めていない。
山や海で自由に生きようとする動物に、社会は害獣のレッテルは貼っても彼らの命を守ることはしない。 

動物や家畜たちは、ショーをしたり、見世物にされたり、


もしくは人間の道具となるために、
もしくは食べられるために生まれてきたのではない。 



自分の身近にいる犬猫を悲惨な実験道具や食べ物として見ることができないように、その慈愛の目をほんの少しだけ他者に拡げることは困難なことではない。それは他者の権利を認めることで、権利の拡大につながる。そして、そういった人々が増えていくと、地球の未来は平和で希望に満ちていくだろう。 

わたしは菜食を実践している。 
もしもカナダのハイカーのような立場になったとき、もしくは極度の空腹状態になったとき、「動物は食べ物ではない」という意識と習慣が、私をむやみな殺生から遠ざけてくれるだろう。 

「菜食」は暴力をとめる「食事」であり、
ひとりでしずかに実践できる愛の平和行動である。

2013年10月29日火曜日

狩ガール

「狩りガール」 
こんな記事を書くのも、彼女たちのことをお知らせしているようで、決していい気分はしないのだが…。
そうも言ってられないくらいのにぎわいを見せている。 先日、ミニコミ紙に書かせていただく機会を得たので、下記の内容を掲載させていただいた。



野生動物や家畜を屠殺、解体する女子のことを「狩りガール」と言う。 
このお嬢さん方のことを「自然派、命に向き合っている」とメディアも紹介。 
各地で講演や実演などもしている。 

ブログなどで、自身の生活を独特の表現で紹介し、老若男女の多くのファンを獲得。 
例えば「普通の女子が鴨を絞めてお雑煮にしたよ」とか「うさぎはかわいい味がした」そのウサギの皮をなめしPARCOに展示して「みんなにみてもらってよかったね、うさぎちゃん」他にも「(猪解体時に)ウルフルズを流すとくじけずに最後までできる」など。 

屠殺や解体を楽しんでいるようで猟奇的だと反対する人もいる。 
ならば、殺すとき、猟奇的でなければよいのか? 
現代の屠場のように機械的に殺すことは? 
かわいそうだけど…と心を込めて殺せばよいのか? 

20年くらい前から教育現場では、鶏などの家畜を育て、屠殺、解体、食べる「命の授業」を展開している。この最たるものが小学校で行われた「豚のPちゃん」。2年半の間、毎日、名前を呼び世話をすることで「小学生」と「豚」との間に信頼関係ができてしまい、食べれないと子どもたちは悩んだが、結局、Pちゃんを「屠殺場」行きのトラックに載せた。 

 「かわいそうだけど心を込めて」送り出せばよいのか? 

これらの根本には「殺されて当然の生き物」という考え方がある。 
殺し方にこだわり、殺すことに慣れることが一般的だと教える社会がある。 
「命の区別・線引き」つまり「スピーシズム」教育。度を超せば、過激な「愛国主義者」にもなる。 

大河ドラマ「八重の桜」は、銃を持つ女子のカッコイイ演出をして、大和撫子が銃を持つことを正当化した番組。 

 世の中、殺せ殺せのオンパレード。 



一方、人間の良心は「殺生」に心を痛めるようにできている。とくに女性は「命を産み出す」ので、その気持ちは男性より強い。 

昨今は、重度の肉食(=殺生)などで良心も曇り、人は自身の心と会話もできなくなってきた。 
本来は「殺されてよい命」「殺してよい命」など、ひとつもない。 
すべてが、かけがえのない「命」。 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

去年から国は「自然にやさしい」というキャッチコピーで「狩猟」講座を開始。若いハンターを増やすことが目的。殺しのどこが「やさしい」のか? 
猪や鹿を害獣と差別、駆除する前に、彼らがすめる山にする方が「自然にやさしい」と強く思う。 

  「動物を殺す事は人間を殺す事と同じ」ー レオナルド・ダ・ヴィンチ ー