「狩りガール」
こんな記事を書くのも、彼女たちのことをお知らせしているようで、決していい気分はしないのだが…。
そうも言ってられないくらいのにぎわいを見せている。 先日、ミニコミ紙に書かせていただく機会を得たので、下記の内容を掲載させていただいた。
野生動物や家畜を屠殺、解体する女子のことを「狩りガール」と言う。
このお嬢さん方のことを「自然派、命に向き合っている」とメディアも紹介。
各地で講演や実演などもしている。
ブログなどで、自身の生活を独特の表現で紹介し、老若男女の多くのファンを獲得。
例えば「普通の女子が鴨を絞めてお雑煮にしたよ」とか「うさぎはかわいい味がした」そのウサギの皮をなめしPARCOに展示して「みんなにみてもらってよかったね、うさぎちゃん」他にも「(猪解体時に)ウルフルズを流すとくじけずに最後までできる」など。
屠殺や解体を楽しんでいるようで猟奇的だと反対する人もいる。
ならば、殺すとき、猟奇的でなければよいのか?
現代の屠場のように機械的に殺すことは?
かわいそうだけど…と心を込めて殺せばよいのか?
20年くらい前から教育現場では、鶏などの家畜を育て、屠殺、解体、食べる「命の授業」を展開している。この最たるものが小学校で行われた「豚のPちゃん」。2年半の間、毎日、名前を呼び世話をすることで「小学生」と「豚」との間に信頼関係ができてしまい、食べれないと子どもたちは悩んだが、結局、Pちゃんを「屠殺場」行きのトラックに載せた。
「かわいそうだけど心を込めて」送り出せばよいのか?
これらの根本には「殺されて当然の生き物」という考え方がある。
殺し方にこだわり、殺すことに慣れることが一般的だと教える社会がある。
「命の区別・線引き」つまり「スピーシズム」教育。度を超せば、過激な「愛国主義者」にもなる。
大河ドラマ「八重の桜」は、銃を持つ女子のカッコイイ演出をして、大和撫子が銃を持つことを正当化した番組。
世の中、殺せ殺せのオンパレード。
一方、人間の良心は「殺生」に心を痛めるようにできている。とくに女性は「命を産み出す」ので、その気持ちは男性より強い。
昨今は、重度の肉食(=殺生)などで良心も曇り、人は自身の心と会話もできなくなってきた。
本来は「殺されてよい命」「殺してよい命」など、ひとつもない。
すべてが、かけがえのない「命」。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
去年から国は「自然にやさしい」というキャッチコピーで「狩猟」講座を開始。若いハンターを増やすことが目的。殺しのどこが「やさしい」のか?
猪や鹿を害獣と差別、駆除する前に、彼らがすめる山にする方が「自然にやさしい」と強く思う。
「動物を殺す事は人間を殺す事と同じ」ー レオナルド・ダ・ヴィンチ ー
その通りですね。「自然に優しい」という殺しは、人間が一番自然を破壊しているのだから、「自然に優しい」状態を作るために人間を殺すことが正当化できる考えです。また、「自然保護」と称して殺すことが人間にとって、必ずしも良いことだとは言えません。動愛法の理念とも相反するものです。こういったことをしようとする事自体がい生命を軽視し、友愛を否定し、それを慣用することにより、殺伐とした残酷な社会を目指すものであると思います。
返信削除Written by Sora