2010年6月4日金曜日

くだん

 トカラ列島の宝島には「イギリス坂」という場所がある。

 文政七年(一八二四年)宝島沖のイギリス船から、数人のイギリス人が小船で上陸、食用の牛を求めたが、住民がこれを断ると、銃を乱射、牛三頭を強奪。藩庁から島に来ていた役人らが応戦、イギリス人一人を射殺した場所である。

 この事件がきっかけとなり、翌年に「異国船打払令」が出されるまでに発展するのだが、これは日本人が生活のための大型農業を余儀なくされる以前の話。

 トカラの人々は、今も昔も他人のことを想いやることができる優しい人々である。
お腹がすいたイギリス人に意地悪で牛を渡さなかったわけではない。

 農家の人々にとって、牛は大切な家族だった。
 畑を耕すとき、すきをひかせ、畝をつくる。人も乗せれば、重い荷物も運ぶ。
 畑で酷使するためなら、畑の近くにあってよいであろうに、今でも残る牛小屋跡は、農家の敷地内にあり、牛は丁寧に扱われていた。だから、牛をわざわざ殺して、食べることは、我が子を食べることと同じであった。飢饉時には、そういうこともあったらしいが、肉を食べてまで生き残るという選択の哀しさと罪の意識を感じる。

 とにかく、基本的には菜食であった日本人。

 鶏は、食べるために飼っていたのではない。卵を少しだけ失敬するためだ。
 そして、死んでしまった鶏を今までありがとうと肉まで喰らった。
 最大のおもてなし料理は、肉を供するために、その鶏の命を絞めることであった。奄美の鶏飯など、その料理のひとつで、一般に食べるものではなかった。

 狩りは、神にたいしての捧げものであり、儀式(祭り)につながっていた。祭りで、人々はお下がりの肉をいただいた。また、ウサギを一羽、二羽と数えるのは、鶏でないと知っているからこそ、その罪の意識から逃れるためだったかもしれない。

 ある日、日本人は外国文化をとりいれるために、その心を引き換えにした。
 便利さにしがみつくために、肉を食べ続ける日本人。
 そして、体は牛や豚のように大きくなってしまった。しかし、それは、もともとの日本人の体にお似合いでないから、醜さだけが体に宿る。
 それでも我々は食べ続ける。栄養が不足するから、大きくなれないからと、肉を食べないことが罪であるかのように、不安を増長させる。

 最近では不思議なことに、肥満だけにとどまらず、顔まで人っぽくない日本人が増えてきた。脳をも肉に乗っ取られたのである。まさに肉の逆襲。


 むかし、むかし「くだん」という頭が人で、体が牛の妖怪がいた。

  私の姿を見た者は災厄を免れるが、
  私の姿を見る事が出来ない者のためにも、
  この姿を絵に描いて人々に見せよ...。

 くだんは、牛を家族同然に扱ってくれた農家の人々のために、豊作や疫病の流行を予言して、みずから短い命を閉じていった。

 それから数百年、便利で情報網の発達した社会は、くだんの予言より牛そのものの肉を必要とした。

 くだんの短い命は、肉を喰らう私たちの中で永遠の命を持ち、いつしか予言は欲求となり、この社会は災厄を逃れるどころか、災厄ばかりの世の中である。 

1 件のコメント:

  1. BSEが流行った頃のなぐり書きデス。その後は口蹄疫…。
    牛にしてもヒトにしても本来の在り方が違ってきているような気がします。

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