2019年1月22日火曜日

肉を喰らうヴィーガン

一般的に「ヴィーガン」とは「お肉を食べない完全菜食の人」と言う認識が強いと思う。
「サーカスに動物を使うなんてもってのほか…ダメでしょ」と言う認識は薄い。

「ヴィーガン」はベジタリアン同様、食生活のカテゴリーでしかない。

そこが、とても残念。

食生活など…どうでもよくないがどうでもよく、ヴィーガンは自分の中で「カッコいい」を貫く生き方だとワタシは思っている(全然楽しくないが…)。

肉食という最大の暴力に抵抗するために食生活での完全菜食の表現が大事なことは言うまでもないが、ソレはひとつの方法であってヴィーガンの生き方の重要な部分ではない。

なぜなら、ヴィーガンと非ヴィーガンは食べるモノは違っても自分の腹を満たすために喰うこということであれば、少なくとも食事の目的は同じだと思う。

だから、「喰う行為」自体を考え直したいと思うが…腹が減る。。

じゃあ、「喰う」ことを根本的に見直そうと思って、
ヴィーガンとして理想的な喰い方があるか、と考えたことがある。

ワタシタチ人間は、全く罪の無いイキモノを虐待し彼らの生きる権利を剥奪し、あげく食べるために惨殺し肉塊にする。コレを罪と言わずしてなんという。

自分はヴィーガンだから…この連鎖は関係ないとは言えない。

ヴィーガンは、この不条理が判るだけに怒りもわいてくるし、なにより辛くて哀しい。
この暴力を止められない以上、われわれヴィーガンもこの不条理連鎖に加担してると言わざるえない。

だから、あえて罪を喰らう。つまり、あえて肉を喰らう。

腹を満たすために喰うのではなく、泣きながら肉を喰う。

「ごめんなさい」くらいではまだまだ…

「愛」で喰う。

ワタシのカラダの一部になったとき、彼らが光に還ることができないのか…と。

例えば、自分のとても大事な…大好きな…愛してやまない…ヒトが
そのヒトが自分より先に亡くなったら…
哀しくて、哀しくて、一緒に逝きたかったと思うが、そうもいかず…
愛するヒトの肉片を切り刻んで喰らうことはできないけど、骨をこっそり持ち帰り
自分の身体の一部となってくれないか…と骨をそっと口に入れるかもしれない

気味が悪いという人がほとんどかもしれないが
自分の一部のように思っていたヒト(イキモノ)だったら、そうしたくなるかもしれない
「喰う」という行為をそれくらい高めることができたら、
不条理連鎖の肉塊をも喰らうことができると思った。

しかし、

実際は、スーパーに並ぶパック入りの肉を見るだけで目眩がし、
間違って肉が口になど入ってしまうと、あのおぞましい味が身体中を駆け巡り、吐いてもなお気分が悪く息もできなくなってしまう。
焼き肉等の臭いもまったく同じで思考が止まる。

つまり、肉塊に対して「気持ちが悪い」と思うわけで
つまり、あの可愛いイキモノだった「肉塊」を愛おしいと抱きしめることなどできない
つまり、「ごめんなさい」と言いながら食べることすらできない

屍たちに申し訳がたたない。

だから、

ワタシは彼らを喰らわずに「ごめんなさい」とつぶやき、
腹が減るから、腹を満たすために完全菜食をする

ヴィーガンが肉を喰らうときは、
腹を満たすための食事をしなくなったときかもしれない。

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