2020年4月5日日曜日

笑う

「じゃりん子チエ」という漫画があった。
舞台は大阪の下町(多分西成あたり)
主人公のチエは小学5年生の女の子、真面目に小学校に通いながらホルモン焼き屋の店主をしている。

チエの父親のテツをはじめ登場人物が相当に個性豊か過ぎて、あり得ない日常が展開される。読み進めていくうちに妙に納得して、チエの日常が普通になってしまい…そして、声を出して笑っている自分に気づく。

人情コメディとでも言うか…

さすが大阪というか…





ワタシは単純に面白いと思い、友人にススメた。
友人は「東京大学」の4年間だけでは飽き足らず、大学院で哲学を学んでいた。

数日して、友人が漫画本を帰しに来たが、その表情に笑顔がない。
友人と「じゃりん子チエ」の笑いを共有したくて、ワタシは「面白かったでしょ」と尋ねた。

「どこが面白かったの?」
「……(えっ?面白くなかったのかなぁ)」

東大に長いこと在籍してるし、笑うことを忘れてしまったのかもしれないと思い、
「テツが面白かったでしょ」と自信満々の笑顔で聞いたが、「そうねぇ」と彼女の表情はすぐれない。

「面白くなかったの? ぜんぜん笑わなかったの?」
「笑えそうな部分もあったけど…そこまで笑えなかったよ」
「笑いの評価が厳しいんだね」
「厳しくはないけど、笑いについて論文を書いたことがあるんだ」

それこそ驚きだった。
東大生は笑うことすら哲学するのか
彼女が言うには…と言っても何十年か前の話なのでおぼろげな記憶をたどると
ワタシたちが、対象物(人や動物)に対して笑うとき、大きく分類して3種類の要因があると彼女は言っていた。

①共感(思わず似ている部分)

②優越感(失敗しそうにない人の失敗)

③侮蔑感(性格や肉体の欠陥、道徳や常識の欠落)


「どの要因で笑ったの?」
「どれでもないよ、面白かったから笑ったんだよ」
「面白いは要因じゃないよ、テツに対してどの要因で笑ったの?」
「共感ではないから、優越感か侮蔑感しか残ってないけど、どっちでもないよ」


それから何十年も、ワタシは考え続けた
「じゃりん子チエ」の笑いの内容は忘れてしまったけど、人に対して「優越感」か「侮蔑感」で笑う、そんな自分を認めたくなかった。


いまや世の中は「笑い」が渦巻いている。
そして「笑い」のボーダーもなくなった。
なんか…アブナイ「笑い」のような気がする。

友人は今のお笑いだらけの日本をどう分析しているだろう?
ワタシは何十年も昔の彼女の質問に、やっと答えられる。

会いたいなぁ…。


2020年3月5日木曜日

虐待を楽しむ人たち

介護士や看護師が、高齢者や精神疾患者を虐待する


珍しいニュースではなくなった。

10年ちょっと前の爪切り事件のころからだったろうか…。
看護師が高齢者のを切るフリをしてわざと剥がしたと内部告発が裁判にまでなった事件。
弱者に手を差し伸べる立場の人が、助けるべき弱者を虐待する。
何かの間違いでは?
過酷な業務のストレスで…つい…なのかとも思った。
結局、この事件は無罪判決となったが、この十数年、高齢者施設等での虐待のニュースは後をたたない。

教師が子どもを虐める事件も後をたたない

例えば、いじめを行う教師は生徒の社会的背景を分析している。
親の職業は?
母子家庭か?
親戚等に議員や権力者はいないか?
自分より完全に弱い立場の生徒(親の背景含む)を選び…虐める。
しかし、(最近の生徒はスマートになっているのか…)
最近は、教師が教師を虐めている。



人の本性には「善悪」が入り交じっている。

自分より弱者に優しくできる人であっても、
自分より弱者を虐めることができるかもしれない。
弱者を虐めているうちに、自分が強くなった気がするのか、気持ちよくなるのか、楽しいのか、ゲーム感覚になる

同じ人間にはできなくても、種が違えば虐待できる

例えば、家畜の立場は完全に弱者。
家畜の面倒を観る立場の者が家畜を虐待する。
過酷な労働のストレスで家畜にアタるのではない。


彼らは家畜への虐待行為を楽しんでいる。

イノシシなどの狩りをする人は、害獣駆除という大義名分のもと、追いつめて殺すことがゲーム(楽しさ)になっている。
虐待を商売にしている缶詰ハンティングを考えれば「違う」とは言えない。



気持ち悪い…
そういうことが、あちこちで起こっている

過度のストレス社会
エネルギーを抜かれた食事
愛のない人間関係

そんな環境にいる人間たちの本性に「善」は宿り難い
「虐待を楽しむ人」になりやすい彼らは「善のある人」のフリもずば抜けている


高齢者を収容した施設で働く人は、相変わらず不足している
「仕事」にプライドを持ち、低賃金でもどうにかこなしてきた先人たちの思いは、相変わらずの低賃金で踏みにじられてしまった。
もうすでに「仕事」ではない

ゲーセンはゲームを楽しむために「お金」を払う場所だけど、
ゲームを楽しんだうえに「お金」ももらえる…
施設がそういうところだと「あの人たち」に認識されてしまうと

閉じ込められた弱者は、虐待の対象となる
家畜たちのそれと同じ構造

人の本性には「善悪」が入り交じっているからこそ、現代人は「ヴィーガン」になるべきだと思う

2020年3月2日月曜日

インフルエンザやコロナウイルスの対処法     ー自然療法の立場からー

業務上、地域向けに開催した単発の講座ですが、なかなか良かったのでブログします。
講師は、「マクロビオテック」を鹿児島に広めた薬剤師で、自然療法の薬局経営者。


病気は自然を踏み外した生活を続けることで生じます。
 
人間の生き方や身体の調和が崩れた「不調和の状態」が続くと
血液が酸性に傾き病気は発生します。

●主な原因


①食事の偏り 動物性たんぱくの過剰摂取・砂糖・果物などの過剰摂取→ 血液酸性
②ストレス ストレス物質(ノルアドレナリン)→ 血液酸性
 
③疲労 乳酸の発生→ 血液酸性
 
④呼吸 浅い呼吸 CO2 の増加(H2O + CO2  → H2CO3→ 血液酸性
                        
⑤脊椎・骨盤等のゆがみ 血流・神経の流れの障害 血液酸性

①〜⑤の要素が複合し合った状態のときに細菌・ウイルス等に遭遇すると感染します。
 
これに便秘が加わると腸内腐敗菌が造り出すガス(スカトール・インドール.アンモニア等)が発生し感染症を発生します。


● 対処法(酸性化した血液を弱アルカリ性にする)

①食事

・動物性食を減らし玄米穀菜食を中心にした食事。
・食べ物は良質(無農薬で生命力のあるもの)なもの
・小食で良く噛み、唾液を出すことが大事。
・ゆっくり食し、生命力や気を巡らし内蔵を休めることが大切。

②〜⑤について

・座禅・ヨガ等の呼吸を伴った東洋的生き方は左右の自律神経のバランスを整えます。
・深い呼吸()は情緒や血流を安定させます。
・血流の乳酸を代謝することで骨のゆがみは正されます。
深い呼吸法には色々ありますが逆腹式呼吸が即効性があります。
                     2H2O + O2  → 4[OH]→弱アルカリ性


つまり…
人間のカラダは起きて活動しているだけで酸性化します。

老化もカラダの酸化が原因。

酸化しやすいカラダをそのままにしておくと、免疫力も下がります。

カラダを弱アルカリにすることで、免疫力を上げることができます(アンチエイジング効果のオマケ付き)

食事や深い呼吸で血液を弱アルカリにできます。

毎日の食事はカラダを造っています。

例えば血液は約4ヶ月で入れ替わります。

4ヶ月間食事をきちんとすることで血液が入れ替わるわけです。

4ヶ月なんて…気長な話だと思われる方のために

★即効性のある食べ物と食べ方があります。それは…
梅エキス舌下吸収絶大な効果by 講師


梅エキスとは青梅の果汁をじっくり煮詰めたもの。

青梅1kgから20gほどしか採れません。

青梅の時期は初夏なので、5月くらいに青梅を採ってつくってみてもよいかもしれません。

消費期限は数年(数十年とも…)だそうです。

自然食の量販店などに「梅エキス」が売っています。

ピンキリありますが…まぁ……いろいろです。

●食べ方は舌下吸収

酸っぱいからとお湯や水等で流し込むと胃から吸収され肝臓から全体に廻るので効果が遅いです。

舌下からの吸収は、即、脳に指令が届くので、クエン酸回路が活性化して血中の乳酸を分解、血液の酸化を抑え血流を良くしマクロファージも活発になり、免疫力がアップするわけです。(心臓発作時のニトロ摂取の理由と同じです)

舌下吸収は喉の粘膜にも梅エキスが浸透するので、喉粘膜に付着しているウイルスが殺菌されます。
(梅エキスの殺菌力:赤痢菌・チフス菌・O-157・ぶどう状化膿菌などに試したところ、いずれも10秒で死滅

インフルエンザやコロナのウイルスは人間の免疫力さえ上げておけば、防げるウイルスなので怖がらないでください。怖がると急激に血液が酸性化して感染しやすくなります。

もちろん、最低限の手洗いやうがいは忘れずに。

2019年11月30日土曜日

 永久(とわ)の季節 ー終わりなき回遊ー (詩)

草の間に居残った夏を
長雨が流してしまった
蟹とバッタが夏を探している

木々に絡み付いていた夏を
すっかり風が吹き飛ばしてしまった
カラスが遊び半分に夏を追いかけている

砂浜に隠れていた夏を
波がさらっていった
夏を探しにきたクラゲは砂浜に置いてけぼり

野分が雨を抱きながら
徹底的に完璧に夏を掃除した

激しい風に飛ばされた蟷螂(カマキリ)が海に飲まれ
砂浜に打ち上げられ骸となると思いきや
蟷螂の命は尽き果てること許されず
羽も鎌もぐっしょり濡れて砂浜を歩き出す
波はおかまいなしに何度も蟷螂をさらう
海を彷徨(さまよ)い片目を失った蟷螂は砂浜に放られ
釣人が打ち捨てたフグの死骸の前に転がる
それならばと蟷螂は海に向かい歩き出すが
引き潮が波を海の向こうに連れて行った

黄昏は曇天に彩(いろどり)を授け海に入り込み
雲は混沌な海の端となって漂い続け
サイケデリックな雲は蟷螂を包み込み
蟷螂が命を終わらせることを許さない

数えきれない命を喰らい生きてきた蟷螂
残った片目に数えきれない恐怖が投影され
夜も終わらず朝も終わらない苛まれる日々に
蟷螂は夜も朝もやってこない季節を探し廻る

希望を解き放ち踊り狂う蟷螂
思考が錆び付き石ころになっても踊り続ける
時が無限に周り続ける

瞬間蟷螂はその季節に漂着する

2019年8月18日日曜日

五葷を避ける

五葷が身体に良くない理由は、刺激が強過ぎる。
五葷に共通する効能は「滋養強壮」。
つまり薬と同じ。

「あー、ニンニクの効いたラーメン食べたいなぁ」とか「あー、ネギたっぷりの蕎麦を食べたいなぁ」

身体が弱っているわけでもないのに、毎日食べ物として摂取して、
しまいには薬物依存になってしまう。
肉食も同様で、人の身体には強過ぎる。
ましてや日本の環境や生活に肉のエネルギーは過剰で不必要。

そして、その過剰なエネルギーは不必要な怒りや喜びとなって発露される。
毎日の原因不明な忌々しいニュースがそれを物語っている。

また、不必要な肉食摂取は自分の躯にはねかえり、
癌や糖尿病の危険性をはらんでいる。

この肉エネルギーの過剰さを抑えるのに、五葷の強過ぎる刺激でバランスをとっている。

実際、肉食をしなかった江戸時代には五葷を料理に使うことはほぼない。
玉ねぎは明治になってから食物として扱われていたし、ニンニクなどは特別な食べ物だった。

五葷や肉食を摂取すると、高揚感が高まる…幸せになったような気分になる。
同時に五葷(や肉食)エネルギーが堕ちると高揚感も低くなる。

私たちはこの外から入れられた高揚感の波(不安感やストレス含む)を内側から制御できないので、五葷や肉食を続けてしまい、あげく病気になるか、けんか早くなる。

薬物などの依存症と同じ。

じつは、塩もそうらしい。
「らしい」というのは、塩こそ躯に必須食品なのでは?と思うから…。

スリランカ人に聞いたのだが、山にこもっているお坊さんに食べ物の施しをするときに、五葷抜きの菜食料理は基本だが、も抜く。

一振りの塩で食べ物は美味しくなる

スリランカ人がそう言ったわけではないが、
「美味しい」を知ってしまうと、もっともっとの欲求と依存になるからなのだろうか。
たしかに、肉も五葷も美味しい…らしい。

拙著は肉や五葷を食べないのでわからないが、塩は選んでいる。

2019年1月22日火曜日

肉を喰らうヴィーガン

一般的に「ヴィーガン」とは「お肉を食べない完全菜食の人」と言う認識が強いと思う。
「サーカスに動物を使うなんてもってのほか…ダメでしょ」と言う認識は薄い。

「ヴィーガン」はベジタリアン同様、食生活のカテゴリーでしかない。

そこが、とても残念。

食生活など…どうでもよくないがどうでもよく、ヴィーガンは自分の中で「カッコいい」を貫く生き方だとワタシは思っている(全然楽しくないが…)。

肉食という最大の暴力に抵抗するために食生活での完全菜食の表現が大事なことは言うまでもないが、ソレはひとつの方法であってヴィーガンの生き方の重要な部分ではない。

なぜなら、ヴィーガンと非ヴィーガンは食べるモノは違っても自分の腹を満たすために喰うこということであれば、少なくとも食事の目的は同じだと思う。

だから、「喰う行為」自体を考え直したいと思うが…腹が減る。。

じゃあ、「喰う」ことを根本的に見直そうと思って、
ヴィーガンとして理想的な喰い方があるか、と考えたことがある。

ワタシタチ人間は、全く罪の無いイキモノを虐待し彼らの生きる権利を剥奪し、あげく食べるために惨殺し肉塊にする。コレを罪と言わずしてなんという。

自分はヴィーガンだから…この連鎖は関係ないとは言えない。

ヴィーガンは、この不条理が判るだけに怒りもわいてくるし、なにより辛くて哀しい。
この暴力を止められない以上、われわれヴィーガンもこの不条理連鎖に加担してると言わざるえない。

だから、あえて罪を喰らう。つまり、あえて肉を喰らう。

腹を満たすために喰うのではなく、泣きながら肉を喰う。

「ごめんなさい」くらいではまだまだ…

「愛」で喰う。

ワタシのカラダの一部になったとき、彼らが光に還ることができないのか…と。

例えば、自分のとても大事な…大好きな…愛してやまない…ヒトが
そのヒトが自分より先に亡くなったら…
哀しくて、哀しくて、一緒に逝きたかったと思うが、そうもいかず…
愛するヒトの肉片を切り刻んで喰らうことはできないけど、骨をこっそり持ち帰り
自分の身体の一部となってくれないか…と骨をそっと口に入れるかもしれない

気味が悪いという人がほとんどかもしれないが
自分の一部のように思っていたヒト(イキモノ)だったら、そうしたくなるかもしれない
「喰う」という行為をそれくらい高めることができたら、
不条理連鎖の肉塊をも喰らうことができると思った。

しかし、

実際は、スーパーに並ぶパック入りの肉を見るだけで目眩がし、
間違って肉が口になど入ってしまうと、あのおぞましい味が身体中を駆け巡り、吐いてもなお気分が悪く息もできなくなってしまう。
焼き肉等の臭いもまったく同じで思考が止まる。

つまり、肉塊に対して「気持ちが悪い」と思うわけで
つまり、あの可愛いイキモノだった「肉塊」を愛おしいと抱きしめることなどできない
つまり、「ごめんなさい」と言いながら食べることすらできない

屍たちに申し訳がたたない。

だから、

ワタシは彼らを喰らわずに「ごめんなさい」とつぶやき、
腹が減るから、腹を満たすために完全菜食をする

ヴィーガンが肉を喰らうときは、
腹を満たすための食事をしなくなったときかもしれない。

2019年1月20日日曜日

ヴィーガニズム

ヴィーガニズムって何?と聞かれたとき(聞かれたこともないが)、
「現代社会でアヒンサー(※)を実践しながら妥協した生活をし、矛盾に満ちた人生をおくること」と考えるが、実際そんなふうには答えずに
「弱者からの搾取を避けたい…生活かなぁ…」
なんて適当に答えるだろうと思う。


生き方としてヴィーガニズムを実践するキッカケは個々それぞれだと思う。

ヴィーガニズムを真面目にやればやるほど、
狂いそうになる、壊れそうになる、死にたくなる。
いや、実際、
狂うし、壊れるし、自己消滅しかけて周りを心配させてしまう。
周りを心配させているようでは、ヴィーガニズムどころではない。
(誰だってどんな人だって、その人のことを心配してくれる人間関係がわずかながらでも残っている)

ヴィーガンは自立してこそヴィーガンだろうし…

もちろん、自立とは人間関係を断ち切るのではなく、
自分の生きる力を育てることで自己消滅でもない。

自立するために、自分と向き合うことはしばしばある。
生活が矛盾に満ち過ぎて、妥協ばかりを自分に強いるから
「これでいいのか」と向き合い過ぎて、
ついつい闇に堕ちてしまう。
そして、壊れることもある。
壊れるのは依存心や我欲によるところが大きい。
そういう闇に隠されているモノをひとつずつ光のモトに連れ出してあげる

光とは愛。
自立とは愛の力を育てること。
ヴィーガン = 愛の人

そんなことを考えると「ワタシはヴィーガンです」なんておいそれと言えないが、
そうありたいと願う。
だから、何かのひょうしに闇に堕ちるが、
必ず還ってくると自分を信じてあげるようにしている。

ヴィーガンでよかった。
幸せ感など全くない。
それでも、ヴィーガニズムを選んでよかったと思う。

※アヒンサー:生き物を殺したり害したりすることを禁止するという宗教的教義の行動規範