主人公のチエは小学5年生の女の子、真面目に小学校に通いながらホルモン焼き屋の店主をしている。
チエの父親のテツをはじめ登場人物が相当に個性豊か過ぎて、あり得ない日常が展開される。読み進めていくうちに妙に納得して、チエの日常が普通になってしまい…そして、声を出して笑っている自分に気づく。
人情コメディとでも言うか…
さすが大阪というか…
ワタシは単純に面白いと思い、友人にススメた。
友人は「東京大学」の4年間だけでは飽き足らず、大学院で哲学を学んでいた。
数日して、友人が漫画本を帰しに来たが、その表情に笑顔がない。
友人と「じゃりん子チエ」の笑いを共有したくて、ワタシは「面白かったでしょ」と尋ねた。
「どこが面白かったの?」
「……(えっ?面白くなかったのかなぁ)」
東大に長いこと在籍してるし、笑うことを忘れてしまったのかもしれないと思い、
「テツが面白かったでしょ」と自信満々の笑顔で聞いたが、「そうねぇ」と彼女の表情はすぐれない。
「面白くなかったの? ぜんぜん笑わなかったの?」
「笑えそうな部分もあったけど…そこまで笑えなかったよ」
「笑いの評価が厳しいんだね」
「厳しくはないけど、笑いについて論文を書いたことがあるんだ」
それこそ驚きだった。
東大生は笑うことすら哲学するのか
彼女が言うには…と言っても何十年か前の話なのでおぼろげな記憶をたどると
ワタシたちが、対象物(人や動物)に対して笑うとき、大きく分類して3種類の要因があると彼女は言っていた。
①共感(思わず似ている部分)
②優越感(失敗しそうにない人の失敗)
③侮蔑感(性格や肉体の欠陥、道徳や常識の欠落)
「どの要因で笑ったの?」
「どれでもないよ、面白かったから笑ったんだよ」
「面白いは要因じゃないよ、テツに対してどの要因で笑ったの?」
「共感ではないから、優越感か侮蔑感しか残ってないけど、どっちでもないよ」
それから何十年も、ワタシは考え続けた
「じゃりん子チエ」の笑いの内容は忘れてしまったけど、人に対して「優越感」か「侮蔑感」で笑う、そんな自分を認めたくなかった。
いまや世の中は「笑い」が渦巻いている。
そして「笑い」のボーダーもなくなった。
なんか…アブナイ「笑い」のような気がする。
友人は今のお笑いだらけの日本をどう分析しているだろう?
ワタシは何十年も昔の彼女の質問に、やっと答えられる。
会いたいなぁ…。