2018年7月15日日曜日

死刑基準

…という映画をみました
映画をみなくても、7・6のことがなくても、わたしは死刑という量刑は現代の人間社会にあるべきではないという立場です
もちろん理想論でもなければ思い付きでもなく、自分なりにシュミレーションした結果で、この立場は変わらないと思います

この映画の中で、死刑を推進する側の理由は「遺族の感情」
死刑を反対する側の理由は「えん罪の可能性」でした
どちら側にも他の理由は描かれてはいません
2時間足らずでこのような問題を扱うわけですから仕方のないことです
ただ、反対の理由が「えん罪の可能性」なので、本当の意味で死刑を反対しているわけではありません
そのためか、何を伝えたいのか…さっぱりわからないまま終わってしまいました
この映画を描いた人は死刑に対して疑問はもってはいるけど、まだまだ中途半端だったのでしょう

さて、身近になってしまった殺人事件はもとより、戦争も死刑執行もコロシです
戦争や死刑執行は自らの意思で殺してはいませんが、シゴトというところに問題があります
ひじょうに恐ろしいのは、職務上で堂々と人を殺すことができる立場の人がいるところです

「セデックバレ」という映画をみたことがあります
台湾の首刈り族の話です
首刈り族は呪術的な目的のために他の種族の首を無差別に刈ります
結果的には殺人なのですが、わたしの知るところの殺人とは趣が違っていました
うまく表現できないのですが
あの時代に、あの地域で、あの種族に、自分や身内の首を刈られてしまったら、底知れぬ哀しみのあとに、ソレは運命だったと諦めてしまうかもというような感覚です
そして、その種族の中で育ったなら、自分も意気揚々と他人の首を刈るかもしれないという感覚もありました
つまり、殺人を完全否定できないワタシを見いだしたのです

人はなぜ殺したがるのでしょう

わたしたち人間は肉食しなくても生きることができるのに、わざわざ家畜をつくり殺してまで肉食しているところに答えを見つけることができるかもしれません
生贄などを必要とした宗教に答えを見つけることができるかもしれません
どこにも答えを見いだすことはできないかもしれません

人はもともと殺したがりなのか
この社会がそうさせているのか

わからないことだらけですが
罰として人を殺すことに救いは見いだせません
それどころか、誰にもどこにも希望がなくなることは明白です

死刑は社会に絶望をもたらします
絶対にやってはいけない量刑なのです