2011年10月28日金曜日

ヴィーガンです

幼い頃は、誰だって、ヒトと動物の隔てがわからない。。

かわいい牛は、食べられるために育てられている
そのことを知ったときの驚愕。。。げっそり

「お肉食べれな〜い」
「お肉を食べないと大きくなれませんよ」
「いやだ〜」

でも、子どもは肉を食べない事を選択できない。
食卓に出てきたものは「感謝して、ありがたくいただく」と教えられた。

「牛さんは、食べれな〜い」
「お肉になった牛さんだから、食べないとかわいそうよ」
「……(TT)…もぐ…もぐ…。。(TT)」
 何度も、何度も、毎日、毎日、泣きながら、お肉を食べた。

「この肉片は、あのかわいい牛さんとは違う」
 何度も、何度も、毎日、毎日、悩みながら、お肉を食べた。

「かわいい牛さんは、私の血となり肉となって、生き返ってる」
 何度も、何度も、毎日、毎日、自分を納得させながら、お肉を食べた。

「………。」
 何度も、何度も、毎日、毎日、何も考えずに、お肉を食べた。

そして、ついに、笑いながら、お肉を食べてた。

ある日、わたしのからだの血となり肉となったはずの動物たちが騒ぎ出した。

「お肉を食べない事を選択できるよ」

あのバラバラの肉片になってしまった仲間たちも、
この世に生があったときは、
そよ風やひだまりを気持よいと感じたり、
母親から愛撫される喜びや、
食事をする時の楽しみを感じていた。
わたしたちと同じように…。

「そうだった。もう、お肉を食べるのをやめよう」
 私は、決意し、謝罪した。

屠殺場へ連れられていくとき、どんな気持だっただろう?
屠殺場で、処刑を待つとき、どんな気持だっただろう?
殺されるときは、どんな恐怖がおそってきたのだろう?

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
何度も、何度も、毎日、毎日、誤った....。
でも、わたしの罪は消えない。

罪は消えないけど、これ以上、罪をつくらないことはできる。

「もう、お肉を食べなくていいんだよ」

2011年9月24日土曜日

光と影の子どもたち ー詩ー


ある日、混沌(カオス)のなかで、  ひとりぼっちの影が、つぶやいた。


—わたしはだれ?—

すると、  ひとりぼっちの光が、つぶやいた。

—ワタシハダレ?—

ひとりぼっちの影は、考える。

ー??…。だれ?—

一万年、二万年、三万年…まだまだ考えた。

ーこの声は、わたしの声じゃないー

そして、七万年たったとき、ひとりぼっちの影は「ワタシ」さがしの旅にでた。
影が歩くと、いくつもの星が、まっくらな影の中へ、すいこまれた。
歩けば、歩くほど、ひとりぼっちの影は、さびしくなった。
(コエガ、キコエナイ)  ひとりぼっちの光は、つまらなかった。

一万年、二万年、三万年…七万年たったとき、
ひとりぼっちの光は「わたし」さがしの旅にでた。
光が走ると、いくつもの星が、かがやく光の中へ、すいこまれた。
走れば、走るほど、ひとりぼっちの光は、さびしくなった。

いつのまにか、宇宙は、白と黒だけの世界になっていた。

一万年、二万年、三万年…七万年たったとき、影と光がささやいた。

—あなたは、わたし?—
—ワタシハ、アナタ?—

声は、宇宙に、大きくこだまして、
影と光のダンスがはじまった。

一万年、二万年、三万年、まだまだつづく、
四万年、五万年、六万年、影と光は、お互いをさがし、おどりつづけた。
そして七万年たったとき、影と光が、すれちがった。
そこに、大きな七色の虹があらわれた。
それは、光と影のこどもたち。
虹がわらうと、七つの箱が、つぎつぎと、おちてきた。

赤をあけると、楽しさがひろがった。
黄をあけると、希望がひろがった。
紫をあけると、勇気がみなぎった。
青をあけると、やすらぎでみたされた。
藍をあけると、よろこびがうまれた。
だいだいをあけると、平和がおとずれた。
緑をあけると、世界のすべてに、いのちがやどった。

ある日、悪魔がやってきて、
世界をひとりじめするために、虹をどれいにした。

赤がよごされ、よくばりの世界になった。
黄がよごされ、うそつきだらけの世界になった。
紫がよごされ、わがままいっぱいの世界になった。
青がよごされ、世界に、心配のたねが、ふりまかれた。
藍がよごされ、世界に、かなしみがひろがった。
だいだいがよごされ、世界に、戦争がおこった。
緑がよごされ、世界じゅうのいのちが奪われた。

そして、黒は、悪いものとして、くらやみにすてられた。
白は、よいものとして、閉じ込められた。

ひとりぼっちの影は、くらやみの底のすみで、小さくふるえていた。
ひとりぼっちの光は、影をさがして、さけびつづけた。

—ワタシハダレ? ワタシハドコ?—

さけびつづける光は、雷となり、空をかけめぐる。
しかし、光の声は、影には、とどかない。

一万年、二万年、三万年、光はさけびつづける。
四万年、五万年、六万年、雷は空をかけめぐりつづけた。
悪魔は、雷をおそれ、自分のしたことをはずかしいと思った。

そして、七万年たったとき、
悪魔は、自分のおこないのはずかしさに、たえきれず、
ついに、消えてしまった。

ひとりぼっちの影がつぶやいた。

—もういいかい—

影の声は、野原をさむざむと、ころげまわり、つかれはてた光にとどいいた。

—モウイイカイ—

光の声が、やさしくこだまして、空に、光と影のこどもたちがうまれた。
光と影は、おおきな虹をわたる。

—やっと、みつけた—
—ヤット、ミツケタ—

2011年8月29日月曜日

虫けら

私は虫が苦手。
虫と言えば昆虫だけど、蜘蛛は昆虫ぢゃない…虫けら。
しかし、動物世界の末端を担うモノ。

鹿児島県の加治木町のケンカ蜘蛛をテレビで見た。
黄と黒の段だら模様には魔力があるのか、
素手で「女郎蜘蛛」を大事そうに扱っていた。
私は画面を通して見ているだけでよい。

蜘蛛自体には美しさを感じないけど、
彼らの機織り技術には、美を感じることがある。
家の中にあると悪しき物も、幾何学模様の糸と糸の間から青空や太陽の光が見えたり、朝露がかかっていたりすると、真ん中に陣取る蜘蛛も宝石のように見えたりするから不思議。
また、巣に獲物がかかったときの彼らの迅速な行動、処理。神業に近い早業に拍手をおくりたくもなる。

しかし、唯一誉めるべきその技を使わない「蜘蛛」もいる。

ハエトリ蜘蛛

彼らは、待ち伏せではなく、なんと自ら獲物に向かっていく。
狩猟型クモ。
体もぶかっこうだけど、狩猟の仕方が、さらに、ぶかっかこう。
ピョンピョンはねて、獲物にむかう。
ときには、自分よりも大きいハエに挑戦するけど、失敗の確立が多い。
たまに、成功すると嬉しそうにくわえ、体液をチュウチュウ吸っている。
彼らは色も形も美しくはないけど、ユーモラス。

巣もはらない、そして、ユーモラスさえもない蜘蛛。

最悪な蜘蛛…。

アシダカグモ

彼と出くわすと私の身体は一瞬硬直してしまう。

足から足の幅は大人の手のひら位はある。
そのでかさだけでも醜さを充分演出している。
そして、灰色ともこげ茶とも言えぬ醜い色。
それが白い卵を抱えて家の壁や天井にじっと貼り付いていると、
私が餌になるわけでないのに、その部屋に入れない。
ちなみに彼らの餌はゴキブリだそうだ。
しかし、私は彼らがゴキブリを捕獲している姿を見たことはない。

夜、出会うと「巣を持っていないから、どこに行くかわからない、私の顔を這い回ったりしないだろうか」などと、ドキドキして布団に入れなくなってしまう。
しかし、父は夜この蜘蛛に出会うと「ヨロコブだ、福を運んで来る」とヨロコブ。
私は「ヨロコブ」の姿を見ても、ヨロコベない。
(鹿児島弁で蜘蛛を「こぶ」という。夜の蜘蛛で「よろこぶ」らしい)

数年前、甑島へキャンプへ行き、ログハウスに泊まったときに「アシダカグモ」が出てきた。
シュラフを床に敷き、横になって、さあ、寝ようと思ったとき、
哀しいかな、ものすごく大きいアシダカと目が合った。

もう、眠れない。

彼と私との距離150センチ。
しかも同じ床の延長上、つまり同じ高さにいる。
閉ざされた空間は、あまりにも狭い。

逃げ場がない。

しばらくにらめっこが続いた。

眠い…しかし、彼は身じろぎもせずに、じっと私を睨んでいる。
眠い…しかし、眠れない。

眠さゆえ、思いついたのが「タバコの煙大作戦」。
これなら、私が動かずに、しかも手やモノを使わずに彼を追っ払えるかもしれない。

タバコに火をつけた。大きく煙を吸い、彼に思いっきり吹っかけた。(※注)

煙で姿が見えなくなった。

次の瞬間、彼は素早い行動で、煙の間から現れ……、

なんと、数十センチも、ささっと、こちらに走りより、
しかも四本の前足を大きく曲げ、ググッと頭を持ち上げ、
その体を一層大きくして私を威嚇してくる。

なんという素早さ。
こんなに早く動けるとは…。

あわてて、もう一度、煙を吹きかけた。

まずかった。

彼はもっと私の方へザザッと走りより、威嚇する。

気がつくと、距離50センチ。眼がいっぱいある。
たくさんの眼で私を怒って見てる。

あ〜。ごめんなさい。

私は必死で謝った。

もう、煙なんかかけません。
だから、向こうに行って…。
そうだった…。あなたは「ヨロコブ」だったわね。
ごめんなさい。ごめんなさい(泣)(泣)(泣)(泣)(泣)

虫けらと言えど、怒らせると恐怖である。

それから後のことはよく覚えていないが、朝、眠りから覚めたときには、「アシダカグモ」の姿はどこにも見えなかった。

私は虫けらよりも劣る。

※注 今はもう煙草も吸わないし、アシダカを見ても、そんなにびっくりしなくなった。がんばってるなって思える位には成長できたが、手に乗せたりはできないです。

2011年7月6日水曜日

異形のモノたち

 ある日、私は生活に疲れ果て人に会いたくもなくなり、ひとりぼっちの世界に迷い込み、ついに自分が誰なのかわからなくなってしまった。そして、とても狭い暗闇の淵に立ち、その淵の下に果てしなく続く穴の中へ飛び込むべきかと迷ったとたん、私の口を伝わって小さいメロディが声もなく、おずおずと出てきた。

 それは私のとても大好きな子守唄だった。

 私は自分が誰なのかを少しだけ思い出して、歌詞をそろりそろりと歌ってみた。
 すると私の眼からほろりほろりと涙がこぼれ落ちてきた。大きな声で歌うと涙も大きくなり、私の立っている淵に塩辛い洪水が押し寄せ、私はついに暗い穴の中に落ちてしまった。

 息もできず細くて暗いトンネルをどれくらい旅しただろう。ただ唄を歌うことだけは忘れなかった。私は白い大きな部屋に放り出され、小さなプラスティックの箱の前に立っていた。

 少し正気になって周りをよく見ると何千もの透明なプラスティックの箱が積み上げてあった。その箱の中に一匹ずつ入っているモノたちは実験動物のようでもあるし、新種の生き物のようでもある。皆それぞれ微妙に形が異なるのに、口々に唱えている言葉は同じだった。私は歌うのをやめて、耳を澄ませた。

「出して、出して...」

 小さな箱に閉じ込められている彼らの表情は不思議と哀しそうではなかった。箱の中からのシュプレヒコールにあわせ、全ての箱がかたかたとうごめいていた。
 その幾多の箱のひとつから小さな生き物が脱出し、ちょろちょろと走っていく。その先には白いローブをまとった髪の長い美しい少女が倒れていた。私も走り寄り彼女に声をかけたのだが、彼女はぴくりともしない。死んでいるようではないのだが、動かない。

 私はどうしたらいいのだろうと判らなくなり、プラスティックの箱の中で必死に生きているモノたちに聞いたが、彼らはシュプレヒコールをくり返すだけで、その声は私の耳に入り、細くて暗いトンネルを通り、それが私の胸の奥にたどり着いたとき、私は自分が何ものかを思い出し、私の心臓がとくとくと動き始めた。

 次々と湧き出る赤くて暖かい血はシュプレヒコールをのせ、体の隅々まで走り、私の四肢が感覚を取り戻したとき、私は真っ白な世界に放り出された。眩しすぎて瞳が痛かった。目を閉じるとまぶたをとおし赤い世界が広がり、私の中に怖さと安らかさの入り交じった感覚が広がり不安になったので、少しずつ、少しずつ目を開けると、雨上がりの澄みきった青空が私を包んだ。

 それ以来、プラスティックの箱の中のモノたちは私の体の中でシュプレヒコールを続けながら生きている。あの倒れたままの少女が息を吹き返してくれるまで、あるいは奇妙な生きモノたちが本来の姿で生きていける日がくるまで、はたまた私が倒れ息をしなくなるまで、そのときまで私は少女の代理人として、その異形のモノたちの世話をしなければならなくなった。

2011年5月11日水曜日

いのしし

鹿児島の国道226号は、錦江湾の青い海沿いを鹿児島市内から南へ走るとても眺めの良い道路。
海の向こうの桜島、小さな商店街、松林、そして漁師町。
次々と変わる穏やかな景色は、数十キロの道のりを飽きさせない。

その道の途中に『野生ワナ捕り猪肉』と言う看板がある。
看板の下には空っぽの檻が数個転がっている。
つまり、「散弾銃等で撃ち殺していない猪の肉を売っていますよ」と言う意味である。
見る度に、檻は空っぽなので、ベジタリアンの私は胸を撫で下ろしながら車を走らせていた。
 
しかし、山が秋に色づき始めた肌寒い朝、檻の中に見てしまった。
前足をちょこんと交差させ、その上に頭を横にして眠るイノシシ。
そう大きくないが、ウリン坊特有の背中の斑点は無く、縞模様が走っている。
青年イノシシと言った年齢だろう。

撃ち殺した肉と生け捕りの肉に美味しさか何かの違いがあるのか私には知る由もないが、どちらも嫌だ。
その若いイノシシは、朝の日差しを浴び、おとなしい番犬のように寝ている。

その夜、私はそのイノシシを檻から逃がす為に、力持ちの男友達を無理矢理車に乗せ、226号を走った。
月が無い夜だった。
助手席に座る男友達は、「犯罪だぞ」と何度も言う。
「責任は私がとるよ。私は命迄も盗られないでしょ。イノシシは命がかかってんのよ」
「そりゃあ、その猟師だって生活がかかってんだろ」
「じゃあ、生計を変えればいいじゃん。何よ、今どきイノシシなんて。あなたはとにかく黙っててよ」
「仕事を変えるって、そんな簡単なもんじゃないぞ」
「ふん。死ぬわけじゃあるまいし、しかも食糧難ってわけないでしょ」
私はイノシシのように鼻を鳴らしながら吐き捨てた。
男は口では勝てないと思ったのか、もう何もしゃべらなかった。
空に瞬く星々が、真っ黒な海に吸い込まれいく。

ヘッドライトが『野生ワナ捕り猪肉』の看板を照らした。
車を静かに停めた。その家には明かりがついていない。
外出中なのか、もう寝てしまっているのか、私はドキドキしながら車を降りた。
男をせかし、檻の方へ歩く。
男が弱々しく懐中電灯を照らした。

一個も無い。

檻が全部無くなっていた。
あのイノシシもいなかった。
帰りの車の中、男友達は、自分の友人の面白くもない話を一人で面白そうにしゃべっていた。
遠くで、点いたり消えたりするはかない燈台の明かりが、イノシシの命の灯火のようだった。

※逃げさせられなくて、とても残念な話です。
ごめんなさい。いのしし…。
最近は車もないし、その店の前を通ることもないので、どうなっていることやら…。

2011年4月7日木曜日

おひとよしジャパン

電力会社や政府は、命は金で買えると思っているから、原発は安全だと信じて疑わないバカ集団。

今回の事故も「死ぬのはボクらじゃない」と思っている。


ソレを容認している国民はもっとバカで罪深い。

親や子供や友達の命を売っている。が、そのことに幸か不幸か気付いていないマヌケ集団。


「原発に反対する」私たちは、原発がどんなに危険かを誰よりも判っているのに、阻止できないダメ集団。


日本はバカとマヌケとダメで構成されているから、小さな国土に55基も原発を建ててしまった。

海や地下で水爆実験を続けている諸外国の原発推進の研究者から見れば、

今回の事故は、シュミレーションを実際の数値にできる「人体実験場」。


しかも島国。おひとよしジャパン。

2011年3月26日土曜日

(放射能)汚染水による生態濃縮は心配ない??

反原発ネット@かごしま 代表の橋爪健郎氏からのメールを転載


朝日新聞3月23日に、水俣病の研究を続けてきたと言う滝澤行雄・秋田大名誉教授(公衆衛生学)が「生態濃縮は一定の濃度がな

いと起こらない」と言い、汚染水による生態濃縮は心配ないと言っています。

水俣病を研究している熊本学園大学の宮北隆志氏に問い合わせてみました。


返事----------

記事の内容と共に、「水俣病の研究を続けてきた」とされているところに、強い違和感を覚えました。滝澤氏は元国立水俣病研究

センターの所長、水俣市の助役も務めた人物です。

私は、面識はないのですが、助役を務めていた頃に、「妊婦でも水俣湾の魚を食べても心配ない」とか発言していたようです。今

回の無責任な発言も、ほっておけませんね。

また、下記のブログを参照下さい。

http://chinomori.exblog.jp/2982114