2018年11月4日日曜日

エフィリズムとブッダ

ワタシなりにエフィリズムを考えてみた。

アンチナタにも分類できるらしいが、独立した考え方で、「生きているモノの知覚意識は、最大の悲劇」という考えが基になっている。
「生命讃歌」と真逆なので、「LIFE」を逆さにして「EFIL」と名付けられている。

気の効いた名付け方だなぁ…とセンスを感じた。
また、仏教の「四苦八苦」を思い出した。

四苦八苦ー幸せだなぁとか気持ちいいなぁとか思っても最終的には辛かったり苦しんだりしてしまうーつまり「生きるってことは苦しいことだらけ」がブッダの人生観だ。
手塚治虫サンの漫画「ブッダ」を読んだとき、「苦」に悩み続けるブッダに共感して、ブッダが大好きになった。

2500年昔にブッダが
「人生は苦しむことだらけで大変だけど、実は救いがあるんだよ」
「その救いをボクでも見つけることができたんだ」
「苦のさきには希望があるんだよ、みんなも到達できるよ、その至福を一緒に探そうよ」
と言ったかどうかは判らない。

とにかくブッダは真面目に「苦」について悩みに悩み抜いてそれでも悩んで、苦は解決したりできるものではないという感覚に到達。そのとき、苦の悩みのグルグルループが打ち破られ、彼に別人格というか本来の人格(愛の人)が生まれた。


「愛の人」になった彼は、万人に希望を与え続ける人になった。彼の発する、まったりとした癒しの「オーラ」の威力は半端無かったろう。(と言っても、そのオーラは優しくて微細で大きすぎるので、一般的にはオーラを感じることができなかったとは思うが…)

リアル感で彼は「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」だったと思う。

ブッダは、苦について世界でいちばんたくさん考えた人だから、もちろん、最高級のエフィリストでアンチナタ思考である。
アンチナタについては自分に息子が居るからこそ、そのあたりをリアルに苦しむブッダが、大好きだ。

しかし、ブッダは弟子にすらヴィーガニズム的生活を強いてはいない。
2500年昔の社会や文化にもすでに被差別社会や区別思考はあったけど、弱者から徹底的に搾取するような時代ではなかった。

もちろん、ブッダはヴィーガニズム的生活は大事だと思っていたが、人々が「苦」からの脱却を悟りさえすれば自ずとヴィーガニズム的生活になると判っていた。それこそユートピアだ。彼はわざわざ戒律などつくらない。愛の人だから…。

愛の人は戒律はつくらない。

ブッダが苦の先に至福があることを悟り、人々に希望を与えて…2500年たった。

ユートピアはできていない。それどころか、奪い合いがひどい世界になっている。

2500年間、人々は苦は置き去りにしたまま、希望と至福だけに興味を示し、形だけの至福に満足してしまう世界を作り上げてしまった。

ごめんなさい、ブッダ。


でも、あなたが大事だと思っていたヴィーガニズム思想に気づいた人たちがいて、ソレを貫こうとして、社会との乖離や矛盾にぶちあたり続けている。ぶちあたってもぶちあたっても諦めなかった。
「どうしてだろう?」「なんでだろう?」
考えて考え抜いたら、エフィリズムに行き着いた。

「生きていることは苦である。なぜなら知覚感覚があるから…」
「この苦を感じる知覚感覚こそ最大の悲劇」

エフィリズムは、「現代に生きるクソ野郎どもめ、さあ、この最大の悲劇をどうする?」と私たちに問題提起をしてくれている。
いかにも終末論的問題。この時代に相応しい。

しかし、現代社会には、もうブッダのような「愛の人」は出現しない。
ヒーローにお任せの時代ではナイから、私たちのような一般ピープルがどうにかしなきゃならない。だいたい問題提起も一般ピープルからだ。

ヒーローはいないけど、リアルブッダのような…「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」は、その気になってちょっと見渡せばけっこういる。

ただ、「居てくれるだけでよい人」「存在してくれるだけで有り難い人」は、基本的に何もしない…。だから、もしかすると、現実的には本人は孤独感満載かもしれない。

ワタシは、「居てくれるだけでよい人」ではないし、そんな器を持ち合わせていない。
でも、そんな人を支える小さな人になれればと思う。
そのために「エフィリズム」の先にあるものを考え続ける「クソ野郎」になりたい。

2018年10月26日金曜日

星の子守唄 (詩)

 たゆたふ魂を抱え
 軽妙なバランスで闇に浮かぶ慈愛の星に
 恩送りのために生まれ落ちてきた
 我々は我先にと生まれ落ちてきた

修羅たちは、
蒼い山を奪い合い、碧い海を奪い合い、
青い空を奪い合い、薄青の水まで奪い合う。
修羅族は次々とアオ色にラベルを貼っていく。
ワタシはワタシのラベルをさがす。
ワタシも修羅。
アオ色は輝きを失い、この世から全てのアオが消える。

朱色に昇り緋色に沈む太陽も、
深紅の鼓動を打ち流れる血潮も、
赤子も赤心も修羅たちに喰い尽くされる。
ワタシは生命力(いのち)を喰うために、咲き乱れる海紅豆に情熱をさがす。
ワタシも修羅。
アカ色は輝きを失い、この世から全てのアカが消える。

皐月の麦畑、向日葵、黄金に輝く銀杏の葉、地に降り注ぐ陽の光、黄昏に浮かぶ月、夜の帳に瞬く星、
修羅たちは金色だったものを嘘色に塗り替える。
ワタシは生きるための希望を探す旅に出たが、黄泉の国も修羅だらけ。
ワタシも修羅。
キ色は輝きを失い、この世から全てのキが消える。

輝きを奪われた色たちは、永遠に影としてこの世に縫い付けられ、修羅たちの餌食となり、この世はついに闇となる。
ワタシも修羅。
修羅たちは闇夜を闇にする努力を惜しまない。

凡夫はこの星の責務も明日の義務も放棄して、吾の好奇心を満足させるために修羅と化す。
ワタシも修羅。
絹を身に纏い、毛皮の敷物に座し、象牙の箸で肉を喰らい、この星に生まれ落ちた喜びを忘れ、恩送りも忘れ、宴に酔いしれる。

 たゆたふ魂を抱え
 軽妙なバランスで闇に浮かぶ慈愛の星に
 恩送りのために生まれ落ちてきた
 我々は我先にと生まれ落ちてきた

 くたばりかけてしまった慈愛の星は
 いつかいつかいつの日か
 修羅たちが慈愛に満ちる日を信じ
 彩に輝きを与え続け
 息も絶え絶えに唄い続ける

 木霊が星の唄を抱え走り続ける

2018年10月23日火曜日

義弘公詣り(妙円寺詣り)

鹿児島では、10月に「妙円寺詣り」という変なイベントが開催される。

何が変かというと…

「妙円寺」という「お寺」に詣ると言いながら、実は「徳重神社」という「神社」にお詣する。

宗教観のナイ日本人とは言え、変過ぎる。

内容は「関ヶ原合戦の恨み節」イベント。
関ヶ原合戦の前夜を記念して、旧暦の9月14日に、鎧武者の格好をした行列とともに、数キロもしくは20kmを練り歩く。

むかしは、お武家さんの家系だけに許された行列行進だったが、少子高齢化で武士だ農民だと言っていられなくなり、外人さんでも女子どもでも歓迎している。

とは言いながら…

このイベントの支度揃えや打合せ時期になると、武士の生き残り子孫の大御所がよろよろと…大いばりで出てきて、兜の被り方がなっていないとか、並び方がよくないとか、お辞儀の仕方がダメだとか…子ども相手にきぃきぃと怒鳴り散らす。


「武士は嫌いだ」とつくづく思わされる時期。

さて、この「妙円寺詣り」というなイベント。
武士の子孫たちだけが好き勝手にやっていた頃は、夜中を通して歩いていたらしいが、教育のためにと学校が参加するようになり、昼間に歩くようになった。
ワタシも小学生のころ、残虐非道な歌詞が綴られた「妙円寺詣り」の唄を唄わせられ、
20kmを歩かされた記憶がある。疲れ果てたが、小学生だったので、その歌詞の意味などさっぱりわからなかったことが不幸中の幸い。

そのうち、徳重神社のある行政区の主導(伊集院町時代から合併後の日置市)となり、10月の第4日曜日に開催、学校は自由参加になったので、ワタシはバカみたいな行進から解放された。

しかし、今年は業務上、地域の子どもたちと一緒に御詣りすることになってしまった。
嫌だった。しかし、子どもたちのことを思うと避けられなかった。
だから、調べた。

判ったことは
・島津義弘公の武勇に対して御詣りする祭り
・関ヶ原合戦の「敵中突破」(義弘公の家臣の捨身の精神)が伝説になりやすい
 →「敵中突破」伝説は、日清日露や太平洋戦争の若者の意気を挙げる話に利用されたのではないか?(話されている内容と事実が違う)
・「妙円寺」は廃仏毀釈の11年後に復興しているのにも係わらず、寺号のついた「妙円寺詣り」について寺にはなんの打診も無い
・「徳重神社」は廃仏毀釈で焼かれた「妙円寺」跡に2年後に創建、妙円寺にあった義弘公の木像を御神体にした(木像は寺が焼かれるとき檀家の方が必死に護ったモノ)
 →義弘公の木像は妙円寺に返却すべき

こんなことは地元の歴史家は大昔から超知ってる。
知ってるのに知らないふりして何十年も「徳重神社」への「妙円寺詣り」を続けている。
ぱ〜としか言いようがない。情けない。

ある郷土史家に「変じゃナイですか?」と聞いてみた。
「たしかに変だけど、いまさら変えられないよ」の一言。

が〜ん

「せめて、名称を『義弘公詣り』とそのものズバリにしてはどうですか?」
「全国発信してるから、いまさら変えられないよ」の一言。

が〜ん

「神社もお寺も関係ないようだし、本来の旧暦行事から市民参加型で10月第四日曜の行事にしているなら、ハロウィンも一緒にして、武者行列にいろんな仮装で行列行進してみてはどうですか?」と斬新な案をだしてみた。
「……」(回答はなかった)

そのほうがどれだけ楽しい祭りになるだろう…。

しかし、今年はその想いは胸に秘め、とにかく子どもたちにこの御詣りの意味や意義を伝えて一緒に歩くことが業務。

いままで、3週間毎日(合計18回)、90分の練習時間だったのを
ことしは、1週間に2回(合計6回)、30分に縮小した。それで充分。

30分に縮小することで「武士の生き残り子孫の大御所」がお話する時間をなくした
そのかわりワタシの説明の時間を5分もらってパワポで子供用にアニメを駆使し、妙円寺詣りと言いながら徳重神社に詣ることを伝える一方で、義弘公の知られざる優しさや偉大さを伝えて、こどもたちに彼を身近に感じてもらった。
子どもたちは大喜びだったし、練習時間の縮小は保護者にも感謝された。

しかし

プレッシャーや理由の判らないクレームなども…来た来た来たぁ〜だった(涙)
ガチガチの郷土史家やヨロヨロの武家の子孫たちの臭いがプンプンした。
正々堂々と意見も言えない輩どもだ

「無視するに限る」という結論に達し

御詣りの当日は「徳重神社」だけでなく、「妙円寺」にも詣ることにした。
またもや「今までやったことがないので…妙円寺に詣るのはダメ」
ダメダメが来たぁ〜だった

しかし

こどもたちにちゃんと教えているので、子どもたちは「どちらも御詣りした方が良い」と結論を出している。

ワタシは洗脳したわけではない。

ガチガチ、ヨロヨロの重鎮たちは、黙ったまま、人の足をすくって倒す技に長けている。
とにかく、子どもたちにとって楽しくない御詣りをしないように…と願うだけ。

練習日はあと2回。
行事は10/28(日)


2018年8月2日木曜日

窓際からの独白① ー変だけどヴィーガニズムー

ワタシはもともと影響を感じやすいタイプだった。
他人の感情も感じやすかったけど、今思えば「アレは霊障か」というような「物の怪」に悩まされたこともあった。

そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかった。

気持ち悪い感覚が自分の中から沸き起こるのか、外から入ってきた感覚なのか、その感覚の持ち主が判らないまま、その感覚に支配されていく自分がイヤだった。

例えば、
映画館で流行のバイオレンス的な映画を観た後、自分的には「後味の悪い、観なければよかった」的な映画の感想をもったにも関わらず、急に「ヒトを殺してみたい」というワクワクした感覚がやってくる
とか
スーパーで買い物の途中、知らない客の女性とすれ違いにホンの少しだけ触れてしまった瞬間、それまで思い付きもしなかったのに、エッチしたくてしょうがなくなるくらい体がほてった
とか
お稲荷さんの神社に御詣りに行った夜、ワタシの寝所で走る廻る四つ足の動物をいつしかワタシの中に飼ってしまい、なかなか出て行ってくれず困った
とか
観光名所と言われる滝を観にいった夜、ワタシの寝所の窓にこの世的でない人々が次から次にやってきて、なかなか去ってくれないものだからガラス越しに朝まで睨めっこをした
とか
下宿先の部屋に首を跳ねられた武士たちが交替で毎夜やってきて、ワタシの幽体を欲しがるので、ソレに抵抗するために睡眠不足になった

とか、あげればキリがない。

そんな話を人にすると、「いいわね、自分も幽霊に会ってみたい♥」「思い過ごしじゃない?」「ウソだろ」「へぇ〜そんなことがあるんだね」

当然のことながら「人ごと」である。
悲しくなる。だから、なんで話したんだろう?と考える。悲しみから這い上がるために、もっとよくよく考えると、ワタシの中に「誰かどうにかして…」という依存心の他に「ワタシってアナタたちとちょっと違うのよ」的な優越感を見つけることができる。

そんな自分を見つけてガッカリして、さらに悲しくなる。立ち直りたくもない。
しかし、状況は何も変わらずお化けたちはコトある度にワタシのモトにやってくる。

せめて「お化け」からは解放されたい。

そこからワタシのスピリチュアル勉強が始まった。
ネットもなければスマホもパソコンもない頃のことで、しかも世の中にスピリチュアルなんて言葉も商売も氾濫してなかったし、バシャールなど知る人ぞ知るだったころの大昔である。

そんな大昔はワタシだって見えるモノしか信用しなかった。
他の人だってそうだろうと思う。
他の人に見えない聞こえないものがワタシには見えたり聞こえたりするのは、ワタシだけの事実で他の人に判るはずもない。信用するはずがなかろう。
しかし、このワタシだけの事実を社会で貫き通すと「狂人」扱いになる。ワタシは一般人で「奇人・変人」でもない。

一般人であるワタシは、お化けから解放されるために、あの手この手を使った、その手のカルチャースクールなどないから自分なりに学んだ。
独学というより、「コレでお祓いできました」と言われるものは、実験だと片っ端から試した。確かに祓われる。
祓われた時の解放感というか「雲ひとつない晴れ渡る空に身を置けた」伸び伸びした感覚は気持ちがよい。

そして、
お化けから解放されながら、ワタシは原因を究明した。
原因が判らなければ、結局は違うモノに取り憑かれるだけなので、状況は変わらないに等しい。

たくさんのお化けと長年付き合ってきた。
そんなしなくてもよい経験から学んだ事は、「ワタシはお化けから解放された」というより「ワタシはワタシの中からお化けを解放した」のほうが感覚的に正しいということ。

くだらない答えだった

しかし、「自分の潜在意識がお化けを呼んだのだから、結局は自分自身の責任なのよ」と言われては困る。
責任なんて誰にもナイ。お化けにもワタシにもアナタにもナイ。
責任という言葉は「人のせい」にするためにできた言葉としか思えない。
弱者に重くのしかかり、動けなくしてしまう「言葉」としか思えない。

「お化け」のおかげで、「解放術」を学べた事はありがたい。
しかし、長年かけて学んだ「経験」からの「知識」なのだが、社会的なスキルにはならないので、せっかくの「実績」でも喰っていく役にはたたない。
しかも、解放術に没頭するあまり、この世的なスキルや実績を積むことを忘れ、思い出したら、実績を積むには遅過ぎる年齢に達していた。
いつのまにか結婚相手も同棲相手も逃げ出していたので、居ないツレアイに頼ることもできない。かといって自立しているわけでもない。ワタシはとても弱い存在だということが改めて判る。バカみたい。


世の中疲弊することだらけ
なんでわざわざ生きているんだろ?
なんでわざわざ死ぬんだろ?
どうせ喰っていけない技術なら、そのスキルを「自分を自分から解放する」に使ってみてはどうだろう?少しは死ぬ意義があるかもしれないだろう?と自分自身にひねくれてみる。

ただ…
相変わらず…
もともとの影響を感じやすい体質を変えることはできなかった…

たしかに、現実に存在しない「モノの叫び」は聞こえなくなった
しかし、現実に存在する「モノの叫び」が、よりクリアに聞こえてくる
その叫びに胸が締め付けられ、夜涙することさえある

ワタシが泣いているのか、牛が泣いているのか、わからなくなる

ワタシは肉や魚を食べることができないし、乳製品や蜂蜜も食べることができない、哀しくて苦しくなる。そして、そのモノたちから奪った「この世にあふれ過ぎた商品」を使うには気合いがいる。

そんなことを人に言っても、当然のことながら「人ごと」である。
悲しくなる。だから、なんで話したんだろう?と考える。
世の中を変えるつもりなど毛頭ないけど、世の中疲弊することだらけ
ワタシにも社会にも成長などナイ。

希望的に人生を考えるならば
ワタシは闘争と惰性だらけの社会のなかに愛を捜す旅をしているのかもしれない
愛が見つからなければ、ワタシが愛になればよい
シンプルな回答だが絶対的に不可能…。
ホントは希望などどこにもない
皆ソレを知って判って生きている
ワタシはワタシの魂を抱え闇に堕ちる。

2018年7月15日日曜日

死刑基準

…という映画をみました
映画をみなくても、7・6のことがなくても、わたしは死刑という量刑は現代の人間社会にあるべきではないという立場です
もちろん理想論でもなければ思い付きでもなく、自分なりにシュミレーションした結果で、この立場は変わらないと思います

この映画の中で、死刑を推進する側の理由は「遺族の感情」
死刑を反対する側の理由は「えん罪の可能性」でした
どちら側にも他の理由は描かれてはいません
2時間足らずでこのような問題を扱うわけですから仕方のないことです
ただ、反対の理由が「えん罪の可能性」なので、本当の意味で死刑を反対しているわけではありません
そのためか、何を伝えたいのか…さっぱりわからないまま終わってしまいました
この映画を描いた人は死刑に対して疑問はもってはいるけど、まだまだ中途半端だったのでしょう

さて、身近になってしまった殺人事件はもとより、戦争も死刑執行もコロシです
戦争や死刑執行は自らの意思で殺してはいませんが、シゴトというところに問題があります
ひじょうに恐ろしいのは、職務上で堂々と人を殺すことができる立場の人がいるところです

「セデックバレ」という映画をみたことがあります
台湾の首刈り族の話です
首刈り族は呪術的な目的のために他の種族の首を無差別に刈ります
結果的には殺人なのですが、わたしの知るところの殺人とは趣が違っていました
うまく表現できないのですが
あの時代に、あの地域で、あの種族に、自分や身内の首を刈られてしまったら、底知れぬ哀しみのあとに、ソレは運命だったと諦めてしまうかもというような感覚です
そして、その種族の中で育ったなら、自分も意気揚々と他人の首を刈るかもしれないという感覚もありました
つまり、殺人を完全否定できないワタシを見いだしたのです

人はなぜ殺したがるのでしょう

わたしたち人間は肉食しなくても生きることができるのに、わざわざ家畜をつくり殺してまで肉食しているところに答えを見つけることができるかもしれません
生贄などを必要とした宗教に答えを見つけることができるかもしれません
どこにも答えを見いだすことはできないかもしれません

人はもともと殺したがりなのか
この社会がそうさせているのか

わからないことだらけですが
罰として人を殺すことに救いは見いだせません
それどころか、誰にもどこにも希望がなくなることは明白です

死刑は社会に絶望をもたらします
絶対にやってはいけない量刑なのです