2013年12月4日水曜日

新しい犬がほしい

カナダの原野をさまよい空腹に打ち勝てず、自分の愛犬を殺して食べ、奇跡的に助かったハイカーの最初の言葉が『新しい犬がほしい』だった。 

 マルコ・ラヴォア氏(44)は、ノタウェー川での3ヶ月間のカヌー・トレッキングを計画。7月中旬に愛犬のジャーマン・シェパードを連れ出発。モントリオールから500マイル以上も離れた場所で熊に襲われ、カヌーを壊されテントごと食料を奪われたが、犬が激しく吠え熊を追い払ったおかげでマルコ氏は命拾いした。リュックの中のわずかな食料はすぐに底をつき、空腹で原野を歩き続けた。そして、あまりの空腹に愛犬を食べようと決意。クマの襲撃から三日目だった。マルコ氏は愛犬を岩で打ち殺し食べ、その後3ヶ月間放浪。 



‎‎
 レスキュー隊がマルコさんを発見した時、彼の体重は40キロ(元の体重の半分)にやせ衰えていたうえに極度の脱水症状で、生きているのが不思議なくらいだった。(2013.11.4 online newsより) 


 このニュースについて、サバイバル技術指導者のケイレブ・マスグレイヴ氏は、「彼がさまよっていたあたりには、木の実や木の芽はほとんどない。愛犬を食べなければ、彼は確実に死んでいたはず。無防備なスタイルで三ケ月も生き延びられたのは奇跡、彼はむしろ英雄」だと言っている。 

飼い主を助け、ともに極限を生きようとした犬。


その犬を殺し、食べることがなぜ「英雄」なのだろう? 

20世紀初頭、北極点に初到着したスコットや南極点初到達のアムンゼンのような優れた冒険家たちの功績は「犬ぞりにつきる」と言って過言ではない。 

人間のために極寒を走る犬たちの知られざるもうひとつの仕事は、自らが食料となること。 
鞭打たれながらも走る。途中身ごもりながらも走る。やっとの思いで生んだ子犬は殺され食べられる。ゴールまでの予測がつくと、犬に与える餌がもったいないので元気な犬も殺され食料となる。殺すことを躊躇する隊員たち。しかし、彼らの「殺せない」という感情が、目的達成のための「犠牲」という大義名分で抑え込まれると、躊躇した隊員ですら犬を殺し、解体し、肉にして、腹を満たしていった。 

国内では、冬ごもりしなかった危険な熊を雪山に撃ちに行くマタギの話がある。チームを組んで山に入るが、大吹雪で足止めをくらい、ついに食料も底をついてしまう。腹を空かせるマタギたち。するとマタギ犬の飼い主が長年の苦楽をともにした自分の犬を殺し、食料としてチームの皆に提供。腹が減っても飼い主に遠慮して犬に手をかけることができないチームの気持ちを察しての「思いやり」という大義名分の「殺し」だが、美談として語られている。 



どれもこれも「究極の選択」なのだろうが、これらは単なる「殺し」ではなく、



「仲間殺し」であり重罪…罪は重い。 

犬は、種が違えども他者をいったん「仲間」だと認めると、普段はたいして仲が良くなくても、いざというときには必ず仲間を守る。カナダのハイカーの犬にしろ、マタギ犬にしろ、残り少ない最後の食料は人間優先だったろうから、犬の腹に入るはずもなく、犬は相当に腹が減っていたはずで、犬がその気になれば、牙をむき人間を食料とするのは簡単なことだったろうが、犬は決してそうはしない。 

理由は簡単。「仲間」だから…。 

殺される瞬間も、殺されてすらも、手を下した人間を「仲間」と信じて疑わない犬の瞳を想像するだけで、胸が苦しくなる。 

★    ★    ★     ★    ★ 

奴隷解放の父としても有名なエイブラハム・リンカーンが、『わたしは、人間の権利と同様に、動物の権利も指示している。そしてそれこそは、すべての人類が進むべき道である』と言っている。 

同じ人間でも性別や人種や階級の違いで、権利が認められなかった時代があったように、権利を拡大することは愛の実践であり、平和につながる。 
例えば、強い立場のものが弱い立場のものの生きる権利などを剥奪し奴隷化することは、よくないことだと現代人は知っている。それと全く同じで、動物たちは、「生きる権利」を人間から剥奪され、家畜化(奴隷化)されている。 

動物や家畜たちにも権利がある。 

「人間の権利」と同等の権利がある。しかし、現代の法律では「動物に権利」を認めていない。
山や海で自由に生きようとする動物に、社会は害獣のレッテルは貼っても彼らの命を守ることはしない。 

動物や家畜たちは、ショーをしたり、見世物にされたり、


もしくは人間の道具となるために、
もしくは食べられるために生まれてきたのではない。 



自分の身近にいる犬猫を悲惨な実験道具や食べ物として見ることができないように、その慈愛の目をほんの少しだけ他者に拡げることは困難なことではない。それは他者の権利を認めることで、権利の拡大につながる。そして、そういった人々が増えていくと、地球の未来は平和で希望に満ちていくだろう。 

わたしは菜食を実践している。 
もしもカナダのハイカーのような立場になったとき、もしくは極度の空腹状態になったとき、「動物は食べ物ではない」という意識と習慣が、私をむやみな殺生から遠ざけてくれるだろう。 

「菜食」は暴力をとめる「食事」であり、
ひとりでしずかに実践できる愛の平和行動である。

2013年10月29日火曜日

狩ガール

「狩りガール」 
こんな記事を書くのも、彼女たちのことをお知らせしているようで、決していい気分はしないのだが…。
そうも言ってられないくらいのにぎわいを見せている。 先日、ミニコミ紙に書かせていただく機会を得たので、下記の内容を掲載させていただいた。



野生動物や家畜を屠殺、解体する女子のことを「狩りガール」と言う。 
このお嬢さん方のことを「自然派、命に向き合っている」とメディアも紹介。 
各地で講演や実演などもしている。 

ブログなどで、自身の生活を独特の表現で紹介し、老若男女の多くのファンを獲得。 
例えば「普通の女子が鴨を絞めてお雑煮にしたよ」とか「うさぎはかわいい味がした」そのウサギの皮をなめしPARCOに展示して「みんなにみてもらってよかったね、うさぎちゃん」他にも「(猪解体時に)ウルフルズを流すとくじけずに最後までできる」など。 

屠殺や解体を楽しんでいるようで猟奇的だと反対する人もいる。 
ならば、殺すとき、猟奇的でなければよいのか? 
現代の屠場のように機械的に殺すことは? 
かわいそうだけど…と心を込めて殺せばよいのか? 

20年くらい前から教育現場では、鶏などの家畜を育て、屠殺、解体、食べる「命の授業」を展開している。この最たるものが小学校で行われた「豚のPちゃん」。2年半の間、毎日、名前を呼び世話をすることで「小学生」と「豚」との間に信頼関係ができてしまい、食べれないと子どもたちは悩んだが、結局、Pちゃんを「屠殺場」行きのトラックに載せた。 

 「かわいそうだけど心を込めて」送り出せばよいのか? 

これらの根本には「殺されて当然の生き物」という考え方がある。 
殺し方にこだわり、殺すことに慣れることが一般的だと教える社会がある。 
「命の区別・線引き」つまり「スピーシズム」教育。度を超せば、過激な「愛国主義者」にもなる。 

大河ドラマ「八重の桜」は、銃を持つ女子のカッコイイ演出をして、大和撫子が銃を持つことを正当化した番組。 

 世の中、殺せ殺せのオンパレード。 



一方、人間の良心は「殺生」に心を痛めるようにできている。とくに女性は「命を産み出す」ので、その気持ちは男性より強い。 

昨今は、重度の肉食(=殺生)などで良心も曇り、人は自身の心と会話もできなくなってきた。 
本来は「殺されてよい命」「殺してよい命」など、ひとつもない。 
すべてが、かけがえのない「命」。 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

去年から国は「自然にやさしい」というキャッチコピーで「狩猟」講座を開始。若いハンターを増やすことが目的。殺しのどこが「やさしい」のか? 
猪や鹿を害獣と差別、駆除する前に、彼らがすめる山にする方が「自然にやさしい」と強く思う。 

  「動物を殺す事は人間を殺す事と同じ」ー レオナルド・ダ・ヴィンチ ー 


2013年10月9日水曜日

命にむきあう

命に向き合うことは、狩猟であり、肉食であると結論づけて終わりになっている社会がある。
その結論は早急すぎるのではないか?と思う。
下記は、紆余曲折して、ビーガンを選択した「散文」。
いま思うと、こういうのも「命に向き合う」ってことかも?と思った。
拙文ですが、読んでくださるとうれしいです。

幼い頃は、ヒトと動物の隔てがわからない
かわいい牛は食べられるために育てられている
そのことを知った時の驚愕

「お肉食べれな〜い」
「お肉を食べないと大きくなれませんよ」
「いやだ〜」

でも、子どもは肉を食べないことを選択できない。
食卓に出てきたものは
「感謝して、ありがたくいただく」と教えられた。

「牛さんは、食べれれな〜い」
「お肉になった牛さんだから、食べないとかわいそうよ」
「……(TT)…もぐもぐ。。(TT)」
何度も、何度も、毎日、毎日、何も考えずに、お肉食べた。

「かわいい牛さんは、わたしの血となり肉となって、生き返っている」
何度も、何度も、毎日、毎日、何も考えずに、お肉を食べた。

「……。」
何度も、何度も、毎日、毎日、自分を納得させながら、お肉をたべた。

そして、ついに、笑いながら、お肉を食べてた。

ある日、わたしのからだの血となり肉となったはずの動物たちが騒ぎ出した。

「お肉を食べないことを選択できるよ」

あのバラバラの肉片になってしまった仲間たちも
この世に生があったときは、
そよ風やひだまりを気持ちよいと感じたり、
母親から愛撫される喜びや
食事をするときの楽しみを感じていた
わたしたちと同じように…。

「そうだった。もう、お肉を食べるのをやめよう」
わたしは決意し、謝罪した。

屠殺場へ連れられていくとき、どんな気持ちだったろう?
屠殺場で、処刑を待つとき、どんな気持ちだったろう?
殺されるときは、どんな恐怖がおそってきただろう?

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
何度も、何度も、毎日、毎日、謝っても……
わたしたちの罪は消えない。

罪は消えないけど
これ以上、罪を作らないことができる。
ベジタリアンになる。ビーガンになる。
「もう、お肉を食べなくていいんだよ」

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【命に向き合う映画】 カチンコ 「アースリングス(earthlings)」(95分) 

動物とヒトとのかかわり、ヒトが動物に強いていることなどが、セクション別に描かれており、判りやすい。 
H・フェニックスの声もよいし、なんといっても、モービーの音楽がいい。ムード 
この手の記録映像は、間違えば、衝撃的映像で終ってしまいがちだが、音楽の力で観客をひっぱっていく。 
監督のショーン・マンソンさん、ナレーターのホアキン・フェニックスさん 
音楽のモービーさん、他,製作に関った方々、全員ビーガン。ぴかぴか(新しい)ハート達(複数ハート)

わたしは、後半部分から、声をあげて、 泣きっぱなしだった。泣き顔 


こんなに慟哭する映画は、初めてだった。泣き顔 

これを、残酷な映像だと言うかたがいたら、 
こういうことが、毎日、行われている事自体が 「残酷」なのだと思う。 

ぜひ、大切な方と一緒にみてください。むかっ(怒り)ハート達(複数ハート) 



  



2005年製作 

ボストン国際映画祭をはじめ、いくつかの映画祭のドキュメンタリー部門で最優秀賞 
監督・製作・脚本:ショーン・マンソン      
ナレーター:ホアキン・フェニックス 
音楽:モービー     

2013年9月23日月曜日

太地町とイルカ漁

『ザ・コーヴ』


これは2009年の『ザ・コーヴ』のトレーラービデオ。
世間を騒がせた<イルカ追いこみ漁>のドキュメンタリー映画。
この映画の舞台となった和歌山県太地町は「古式捕鯨発祥の地」

問題になった<追い込み漁>は、外洋でイルカの群れを探し出し、水中に大きな音を送りイルカの音波探知機能を撹乱させ、群れを入り江や漁港へ追い込み、入口を塞ぐ猟法。

イルカは殺される個体と生け捕りの個体に選別。
殺されるグループは、仲間の見ている前で1頭ずつ漁師たちにより頭部に銛を打ち込まれ殺される。入り江は瞬く間に血の色で真っ赤に染まる。
※漁協は2秒で死に至ると言うが、映像を見ている限り、数分以上は血の海でバタ狂っています)
http://www.youtube.com/watch?v=JEdT-ybWFr0
↑埋め込めなかったので、このアドレスをコピペしてください。
<イルカ漁殺し方の矛盾点>が判りやすく解説されています。

さて、生かされる個体は、同町の開発公社が買い取り、国内外の水族館やマリンパークや大学などに学術目的の名分で、300万~500万/1頭で売却。

イルカ肉は約1500円/kg
(大きな成人イルカを、約500kgとして、骨も体も全部が可食部だとしても75万円/1頭)。
ちなみに、シャチは5億円/1頭での取引の実績がある。(シャチも追い込み漁で捕獲)


◆太地町開発公社の売上高(H22年度)
【売上高】   212,982,582円
 
学校給食鯨肉売上…20,193,805
 商品販売鯨肉売上…18,849,798

◎生鯨販売売上…… 169,909,300

 缶詰売上……………  2,258,109
 ソーセージ売上……  1,292,604
 鯨スモークハム売上…… 91,816
 その他の売上…………  387,150

『ザ・コーヴ』の上映でますますイルカ漁に風当たりが強くなった言い訳に、太地町は
「古くからの伝統であるのでご理解を求めたい」の町長発言。
しかし、前述の売り上げ高のとおり、生体販売(75%)が主流
生体販売のための追い込み漁を伝統というのか?

年間数千頭を殺しながら、イルカショーやイルカと一緒に泳ごうなどの癒し系の施設も経営。
同じ施設内でイルカやクジラ肉を提供。
「イルカ、かわいかったわね」と言いながらイルカ肉に舌鼓をうつ観光客。

太地町はイルカに頼りきっている。


漁協は「(イルカ漁は)必要な資源で生活の糧」の回答。「イルカはお金です」と本音だが、あの漁法は命の翻弄。
あまりにむごい。
実際、筆舌に尽くし難いほど残酷な屠殺と捕獲には涙が止まらない。大量虐殺と言っても過言ではない。(ピーピーと聞こえるのはイルカの断末魔です)



◆     ◆
先日、インドの環境森林保護省が、クジラ目を「non-human persons」イルカは人類でない人として固有の権利を有していると認め、イルカと人間の種の壁を取り払った。
日本も早急に種の壁を取り払い、水族館や動物園の生体展示の再考を…。
愛すべき隣人たちを家族から引き離し、見世物にする思いつきは人間のエゴのなせる技。とても哀しい。

2013年8月21日水曜日

大事な約束

今からお話しすることは、ヒミツ。
ワタシの大事なおともだちから、こっそり聞いたかお話だから…。

動物には、どの種にも「神」がいます。
イヌの神様や、ネコの神様、ウシの神様がいるのです。
人間の場合、一人ひとりの個人が「自我」という名の神をもっています。
動物たちは、個体としてではなく、集合体としてひとりの「神」をもっています。
それらの神様たちが、大昔、人間の代表と話し合ったのです。
旧約聖書の時代のことです。


ありとあらゆる存在が、人間に希望を託していました。
人間だけが「新しい可能性」を持ち帰ってくれると信じていました。
それほど「古い世界」は停滞していたのです。
これ以上、先には進めないところにまで来ていました。


そこで、動物の神さまたちが、人間に言いました。
「わたしたちは、あなたがたが地上で生き続けられるように、個体として自我をもつのをひかえましょう。」
それを聞いて、植物の神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、動物と人間が地上で生きられるように、感情をもつのをひかえましょう。」
最後に、石ころの神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、一切の意志をもたず、すべての意識を放棄して、あなたがたの材料になりましょう。」

すべては、動物が「自我」を断念したところから始まったのです。


それは大変な犠牲でした。


彼らは人間によせる愛と希望ゆえに、人間を信じてそう決意したのです。

人間が、自分たちは動物よりも進化しているとか、優れているとか思ったとしたら、
それはおそろしく愚かな思い上がりなのです。
動物たちのほうが、人間よりもはるかに高貴で、崇高な精神をもっています。
それゆえに、動物たちは人間を先に行かせたのです。
だから、人間には、動物にはもちろん、植物にも、鉱物(石)にも、つまり地球全体に対して責任があるし、彼らの思いに応えて、果たすべき使命があるのです。


動物たちは、人間が真の自由(新しい可能性)を獲得するまでには、長い長い道のりがあることを知っていました。
動物たちが自我をもってしまったら、肉食(動物たちを食べること)は「共食い」ということになり、人間は果てしない罪を抱え込むことになります。
それを避けるために、動物は自我を断念したのです。
そして、植物は、ひたすら食物や薬物として働けるように、「感情」を断念しました。




人間が他の動物の肉を食らうのは、まだ真実を見るだけの力がないからです。
肉食への欲求は、真実から目を背けようとする欲求なのです。

動物は、人間と同じで「感情」をもっています。
襲われたり、殺されそうになったり、拘束されたりすれば、当然、恐れや悲しみの感情をもちます。

人間は、肉を食っているようでいて、動物たちの感情を食っているのです。
その感情はヴェールのように、人間の認識の力を覆います。
肉を食べるということは、それだけ自分を「見えなく」しているわけです。

でも、それは、肉食の人たちが「真実」を見ることに耐えられないからです。



しかし、いつかは人間も真実を知らねばなりません。
自由な存在として、この地球をすべての存在にとっての「故郷」となすということです。
「ふるさと再建」です。
それは「個体としての自我の自由」を発揮するということ。
人間は、自分の意志で肉食から離れなければなりません。
けれど、その決意は、一人ひとりの人間の内から生ずるのでなければ意味がないのです。
そうするためには、人間はもっともっと主体性(自我)を育てなければなりません。


そのために「感情を認識の道具にする」ということです。

だからといって、怒ってはいけない、感情的になってはいけない、ということではないのです。感情はいくらでも持ってよいけれど、それを否定しない、押し込めたり、せき止めたりせずに、流していく。感情の流れをせき止めてしまうものが、「自分へのこだわり」です。感情をただひたすら流していって、その感情をてがかりに、自分を知り、世界を知るということ。


感情は、「感じる力」でもあります。
世界に対して、無関心になるのではなく、世界の1つひとつの現象に対して、感情が働き、「自分が感じる」こと。
それを恐れずに、自分の感情を自覚していれば、それによって「自分は何者か」がわかっていく。自分という人間は、何に怒り、何に悲しみ、何を喜ぶのかがわかっていく。

「世界認識」と「自己認識」は同時に起こるのです。
そのとき、人間は、動物、植物、鉱物(石)と約束した使命を果たせるのです。


2013年8月18日日曜日

昆虫は肉食の人を見破れるか?


シュタイナー的に肉食と菜食による人間形成を考えてみた。

人間のからだは食べたもの、飲んだものによって成り立っていることは事実ですが、食べ物を摂取したとき、肉体にどのような化学的経過が生じるかだけでは、人間全体を捉えたことにはなりません。その理由は、わたしたちは、食べ物から目に見える物質以上のものを取り込んでいるからです。
人間も目に見える肉体だけで構成されているわけではありません。わたしたちは四つの体で構成されています。その体が、食べ物からどのような作用を受けるのかという視点で臨むとき、初めて栄養の問題を包括的に語ることができるとシュタイナーは述べています。

【シュタイナーによる人間の体をつくる4つの構成要素】

私たち人間のからだは四つの構成要素によって成り立っています。
下記のイラスト参照。内側から、自我、物質体(肉体)、エーテル体(生命体)、アストラル体(感覚体)です。




<四つの体の超簡単説明>
(1)肉体-----------------物質(鉱物・植物・動物界の領域特性)
(2)エーテル体-(生命)----生命の働き(植物・動物界の領域特性)
(3)アストラル体(魂)-----感情の働き(動物界の領域特性)
(4)自我(精神)---------意識的な思考・感情・意志
※人間は肉体のみにて生きているのではなく(1)~(4)までの4つの体があって生きていると言えます。
<四つの体のおさらいコーナー>
(1)人間の肉体は石ころなどと同じで、物質体と考えます(躯=土塊)。
(2)生きているってことは「生命体」があるからです。植物にあるエーテル体がソレ。東洋的には「気の流れ」などと言いますね。植物が枯れるのはエーテル体の働きが無くなるから。(植物の体の構成は、物質体+エーテル体)
(3)動物は、欲求や感情に関係する「感覚体」を持っています。コレをアストラル体と呼んでいます(動物は、物質体+エーテル体+アストラル体から構成されています)。
(4)自我があって、良くも悪くもやっと人間らしくなるのです。

【菜食と肉食】

私たちが植物、動物の肉をたべるとき、人の体内で何が起こり、どんな影響が生まれるのでしょうか。
 植物を食べるということは生命体を食べる。
 動物を食べるということは感覚体を食べる。
ということなのですが、詳しくみてみましょう。

 人がエーテル体の力で有機体となった植物を食べると、人間のなかでアストラル体が働き始めます。植物の形成プロセスに太陽の光が関係しています。光合成のことです。アストラル体は人の内面の光です。植物を食べるとき、太陽の光と人の内面の光が向き合います。そして、植物の形成プロセスで構築されたものが、人の体内で再構築されていきます。内面の光は太陽の光とは逆の働きをします。太陽の光が植物を構築したのと比較すると、内面の光は植物を体内に摂取することによって、ある種構築されているものの破壊(再構築)ともいえるプロセスを生みます。しかし、そのことによって、意識をもつことができるのです。つまり植物の摂取によって、人の神経組織が構築されていくということです。このような菜食の結果として、神経組織は精神的、霊的なものに対して敏感になり、人は個人という狭い限界を超えて、大きな観点からものごとをみることができるのだとシュタイナーは述べます。人が植物を食べるという行為は、人間にとって自然なのだとシュタイナーは述べています。「もっとも自然なことは、植物がおこなった組織生成の過程を継続することである。つまり、外にあるままの植物を受け入れ、自分のなかでさらに編成していくのが、もっとも自然なことなのだ」

 では、動物の肉を食べることは自然なことなのでしょうか。肉食は菜食よりも、物質体への負担が大きいといえます。「肉食すると、その肉は強固な異物として人体の中に組み込まれます」とシュタイナーは述べています。肉を食する人々は、勇敢、果敢で、温和ではありません。それは「無意識に情念と情動のなかを流れる意志のいとなみが、肉食によって燃え立たされる」ことによります。人は動物の肉を食べることによって、動物のなかに生じたアストラル的な力の影響を受けるのです。「肉食をすることによって、人間は自分の神経組織に影響を与えるものを摂取することになります」とシュタイナーは述べています。そして、肉食によってもたらされるプロセスが高じると、ヒステリー・癲癇(てんかん)、さまざまな神経病を引き起こすといいます。

<ここからは、ちょいと小難しいうえに、読んでも、だから、なんなの?って感じなので、飛ばしていただいて、かまいません>
人が動物の肉を食べるとき、人は植物を食べるときに使った力を使う必要がありません。それはどういうことかと言いますと、人が植物を食べるときに、植物の生成過程を継続していると述べました。同様に「動物」も植物を食べるときに、植物の生成過程を継続します。つまり、動物が植物の生成過程を継続してしまっているので、人が動物の肉を食べるときには、その生成過程を継続する必要性がないということです。
植物を食べるときに使った内的な力を動物の肉を食べるときに、使わなくなるということです。
すると何が起きるのでしょう?
「人体のなかで使用されない組織は、萎え、硬化します。~硬化の説明は省きます~ その硬化した部分を、人間は異物のように、一生のあいだ担っていかねばなりません」とシュタイナーは述べています。
肉食は別の結果ももたらします。シュタイナーは、人と同じように、植物を食べる牛を例にとって、説明しています。
牛は草食です。牛も動物と同様に、植物を食べて、自らの内に肉を作ります。植物を肉に変える力をもっています。牛が自分で植物を食べて体のなかに肉を作るのをやめて、動物を食べるとします。すると何が起きるでしょうか。植物を食べて肉を作っていた力が体内に留まってしまうことになります。その留まってしまった力によって、有害な物質が作られるのです。とくに尿酸と尿酸塩(尿酸濃度が上昇すると尿酸塩になります。人間の場合、痛風や腎臓障害をもたらします)。尿酸塩は脳に行き、牛は気が狂います。人間の場合も「肉食は人間のなかで消費されない力を生み出し、その力はただしくない方法で人体内で働き、人体内で汚物を作り出します」とシュタイナーは述べています。人々が鉱泉にいくのは、鉱泉に浸かったり、鉱泉の水を飲むことによって、汚物を排出するためだと述べています。

 さらにシュタイナーは肉食を宇宙的視点からも説明していますが、ココでは省きます。(興味のある方は残念ですね。ごめんなさい)

○昆虫は肉食の人を見破れるか?

この質問にはシュタイナーは答えていないので、私なりの所見を述べます。

ココまで読んだのに、回答が、シュタイナーじゃなくて私でごめんなさい。

ある程度意識の発達した動物が、屠殺されるときの恐怖心や怒りは想像を絶します(畜産農家の牛や豚の「裏切られた感」のショックも大きいと思います)そして、彼らが亡くなるとき、こういった負の感覚がアストラル体に残ってしまいます。
肉食の人たちは、肉とともにその感覚も一緒に食べます。当然ながら殺された動物の恐怖や怒りが自分のアストラル体に反映されてしまいます…。これこそ背後霊だったりして…。コワイ

昆虫にとって、自分たちをいちはやく危険から守るために、物質体だけを見る眼だけではなく、私たちとは違う視覚神経…アストラル体やエーテル体も見える(感じ取る)眼があったほうが好都合だと思います。だから、肉食オーラをもつ人には危険を感じ、肉食の人が昆虫に気づく前に逃げるか攻撃するのではないでしょうか。
菜食の人には興味ないというか…危険を感じないので、菜食の人が妙なアクションを起こさない限り、昆虫は彼らをうごく植物くらいにしか思っていないでしょう。もっと言えば、菜食の人たちは昆虫から軽んじられていると思うのですが、それはそれで平和的なのでよいかと…。
菜食の人は、肉食の昆虫から餌と思われないだけでもよかったと思います。

2013年6月15日土曜日

RODEO(ロデオ)


なぜ、跳ねる?

ロデオ側は「牛や馬はもともと跳ねる性質をもっている」と言いますが、安全な状態の動物が跳ねることはありません。
動物を興奮状態にして、跳ねる性質をもつ動物を「跳ねさせてる」が正しい見解です。

●競技場が認めている行為
馬や牛の腰や横腹にストラップを巻く。

馬たちは、腹をきつく縛り上げられるので、なんとか外そうと跳ね回る。(私たちも腹をきつく縛られると、ソレを外そうともがくし、息すらできない恐怖を感じるだろう。自分に試してみると恐怖がわかる)

しかし、もっと跳ねさせるためゲートを開ける瞬間に、動物たちの
肛門に針を刺す、顔にスタンガンを撃つ、顔を鞭で何度も叩くなどをする。
動物が跳ねれば跳ねるほど「観客が喜ぶ」「高得点をとれる」からです。

【参考動画】

競技種目 

派手なラフストック競技が有名。タイムイベントは、逃げる動物を傷つける競技。


●ラフストック8秒以上乗り切ると合格。乗り方、馬(牛)の暴れっぷりを採点

ブル・ライディング  → 暴れている牡牛に乗る競技。

ブル・ベアバック・ブロンコ・ライディング  → 鞍をしていない暴れ馬に乗る競技。
サドル・ブロンコ・ライディング  → 鞍をしている暴れ馬に乗る競技。

●タイムイベント (逃げるまどう動物を、完全に捕まえるまでの時間を競う)



スティアー・レスリング (Steer Wrestling)
走っている馬の上から逃げる牛に飛びつき頭をひねって牛を地面に倒す時間を競う。
チーム・ローピング (Team Roping)
2人のカウボーイが馬に乗りながら、逃げる子牛の頭と後ろ脚にロープをかける時間を競う。
タイダウン・ローピング (Tie-Down Roping)
逃げる子牛の頭に馬の上からロープを投げてひっかけ、馬から下りた後に その子牛の四肢を縛り上げる時間を競う。
スティアー・ローピング (Steer Roping)
逃げる牛に馬の上からロープを投げ、牛の頭にひっかける時間を競う。
バレル・レーシング (Barrel Racing) 女性専用種目
場内に三角状に配置された3つの樽をポイントととし、それを馬で走り抜ける時間を競う。



【参考動画】


問題点 

動物の権利および動物福祉の組織は、動物を傷つけ苦しめているとしてロデオを非難している。アメリカ政府の食肉検査官を30年間務めた獣医師のDr. C.G. Haberは、ロデオから食肉として廃棄された動物の様子を次のように述べた。

“傷ついた範囲があまりに広く、皮膚がはがれずに残っているのは頭、首、脚、腹だけだった。肋骨が6 - 8本折れた動物を見たことがある。肺が破裂したものもあった。はがれた皮膚の下に2 - 3ガロンもの血液が溜まっているものも見た。”

有名なロデオ

カナダ、アルバータ州カルガリー・アメリカ合衆国、テキサス州ヒューストン及びメスキート

ロデオは乗っている人にも危険な競技で、実際、競技者も「怖い」と言います。乗れば乗るほど、恐怖だそうです。なぜなら、落ちた後も顔を踏まれ、骨を折ったりなど、酷い状態を経験するからです。
そういった危険をおかしてまで、競技する理由→賞金

賞金額

小規模のロデオで優勝賞金が1000ドルくらい。(約10万円)
PRCAのロデオで最も賞金額の高いものは50,000ドル。(約500万円) 
カナダのカルガリーで開催される『カルガリー・スタンピード』の優勝賞金は、100,000ドル。(約一千万円)

PBRのメジャー・リーグ、B.F.T.S.で毎回の大会ごとに支払われる優勝賞金は、20,000ドル以上。(約200万円)

補足

ロデオの競技で「捕まえられる子牛たち」が、走りたくないと出場を拒否することがあります(転げて立とうとしません。無理やり立たせても必死で歩かないように努力します)が、
ロデオにかかわる方たちは、動物の愛で方が違うので、
子牛を蹴ったり、踏んづけたり、しながら、会場へ引き立たせます。お客はソレをみて、拍手します。このような環境に加え、ロデオは文化競技というカウボーイの高いプライドがあるため、なかなか「動物愛護」が入りにくい競技です。

何をすればよい?


日本のテレビや雑誌などで「ロデオ」を楽しむ「競技」として、紹介されることがありますが、それを見た時は、必ず媒体などに電話したり、メールする、手紙を書くなどして、ロデオの残酷さを訴えていくことは、海を渡っているとはいえ、関係ないことはなく、大事なことです。
見て見ぬフリがいちばんよくない行為です。

2013年4月28日日曜日

ヒューマン フレッシュ(human flesh)


鶏肉を卵でとじて、どんぶり飯にのせた料理を「親子丼」という。
子供のころ、このネーミングの意味がわからなくて、近所のおばちゃんに尋ねた。

「鶏の子供は卵だからよ」

幼いわたしは、母といっしょに細かく刻まれ、どんぶりの中で混ぜられることをイメージしてしまった。

怖いというより、とても悲しくて、親子丼の鶏と卵がかわいそうで食べることができなくなった。
ちなみに、豚肉や牛肉を卵でとじたものは「他人丼」というらしい。
他にも驚愕ネーミングに生き物を生かしたまま調理し提供する「活き造り」。
激しい痛みと恐怖を感じ、食べられないどころか、この「拷問料理」の罪の意識にさいなまれる。
肉のネーミングにいたっては、豚肉、牛肉、鶏肉、鹿肉、馬肉……。
けがれなき瞳をもつ彼らの愛くるしい姿を想い起す心にフタをしなければ、食べモノだとはとても認識できない。
 英語の肉のネーミングは、直接的に動物をイメージしにくい。
例えば…
 pig →豚肉pork  
 牛cow , ox , cattle →牛肉beef  
 羊sheep →羊肉mutton  
 鶏hen →鶏肉chicken , fowl

諸説理由はあるが、肉を食べることは野蛮な行為で、「禁」を犯すことだから、名前も料理も一工夫した。
ちなみに…
馬肉horse meat /鯨肉whale meat /犬肉dog meat /熊肉bear meat

「動物+meat」こういった肉を食べるのは野蛮人だといわんばかり。

人肉は、human flesh 

「flesh」は、果肉の意もあるからか、horse meatwhale meatは野蛮だが、human fleshを食すのは野蛮ではないかも…
冗談ではなく、人間が肉食を始めたきっかけを考えたとき、

それは、人肉だったように思う。

太古の生贄は人間。

お下がりは、当然のごとく祭司をはじめ皆で喰った。
生贄は、手に入りやすく、安全な肉でなければならないからこそ、人間だった。
しかし、人間を殺すことは非文明的だと誰かが言い出し、代替えは動物になった。
お下がりを食べたいから、人と同じくらい旨い羊や仔牛や豚を使った。
宗教的行事とは別に、飢饉のときもあったろう。飢えをしのぐのに、腹ぺこの状態で危険を冒して、旨くもない獣を狩っただろうか?

共食いは当然のように行われていた。

◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

人間は「種差別」をすることで、肉食ができると思っていたが、どうもそうでもないようだ。
近親の死者への愛着がカンニバルをさせ、その愛惜を忘れさせるほど、肉は旨かった。

果たして、スピーシズムの壁を取り払うことが「平和」への早道なのだろうか?