2013年12月4日水曜日

新しい犬がほしい

カナダの原野をさまよい空腹に打ち勝てず、自分の愛犬を殺して食べ、奇跡的に助かったハイカーの最初の言葉が『新しい犬がほしい』だった。 

 マルコ・ラヴォア氏(44)は、ノタウェー川での3ヶ月間のカヌー・トレッキングを計画。7月中旬に愛犬のジャーマン・シェパードを連れ出発。モントリオールから500マイル以上も離れた場所で熊に襲われ、カヌーを壊されテントごと食料を奪われたが、犬が激しく吠え熊を追い払ったおかげでマルコ氏は命拾いした。リュックの中のわずかな食料はすぐに底をつき、空腹で原野を歩き続けた。そして、あまりの空腹に愛犬を食べようと決意。クマの襲撃から三日目だった。マルコ氏は愛犬を岩で打ち殺し食べ、その後3ヶ月間放浪。 



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 レスキュー隊がマルコさんを発見した時、彼の体重は40キロ(元の体重の半分)にやせ衰えていたうえに極度の脱水症状で、生きているのが不思議なくらいだった。(2013.11.4 online newsより) 


 このニュースについて、サバイバル技術指導者のケイレブ・マスグレイヴ氏は、「彼がさまよっていたあたりには、木の実や木の芽はほとんどない。愛犬を食べなければ、彼は確実に死んでいたはず。無防備なスタイルで三ケ月も生き延びられたのは奇跡、彼はむしろ英雄」だと言っている。 

飼い主を助け、ともに極限を生きようとした犬。


その犬を殺し、食べることがなぜ「英雄」なのだろう? 

20世紀初頭、北極点に初到着したスコットや南極点初到達のアムンゼンのような優れた冒険家たちの功績は「犬ぞりにつきる」と言って過言ではない。 

人間のために極寒を走る犬たちの知られざるもうひとつの仕事は、自らが食料となること。 
鞭打たれながらも走る。途中身ごもりながらも走る。やっとの思いで生んだ子犬は殺され食べられる。ゴールまでの予測がつくと、犬に与える餌がもったいないので元気な犬も殺され食料となる。殺すことを躊躇する隊員たち。しかし、彼らの「殺せない」という感情が、目的達成のための「犠牲」という大義名分で抑え込まれると、躊躇した隊員ですら犬を殺し、解体し、肉にして、腹を満たしていった。 

国内では、冬ごもりしなかった危険な熊を雪山に撃ちに行くマタギの話がある。チームを組んで山に入るが、大吹雪で足止めをくらい、ついに食料も底をついてしまう。腹を空かせるマタギたち。するとマタギ犬の飼い主が長年の苦楽をともにした自分の犬を殺し、食料としてチームの皆に提供。腹が減っても飼い主に遠慮して犬に手をかけることができないチームの気持ちを察しての「思いやり」という大義名分の「殺し」だが、美談として語られている。 



どれもこれも「究極の選択」なのだろうが、これらは単なる「殺し」ではなく、



「仲間殺し」であり重罪…罪は重い。 

犬は、種が違えども他者をいったん「仲間」だと認めると、普段はたいして仲が良くなくても、いざというときには必ず仲間を守る。カナダのハイカーの犬にしろ、マタギ犬にしろ、残り少ない最後の食料は人間優先だったろうから、犬の腹に入るはずもなく、犬は相当に腹が減っていたはずで、犬がその気になれば、牙をむき人間を食料とするのは簡単なことだったろうが、犬は決してそうはしない。 

理由は簡単。「仲間」だから…。 

殺される瞬間も、殺されてすらも、手を下した人間を「仲間」と信じて疑わない犬の瞳を想像するだけで、胸が苦しくなる。 

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奴隷解放の父としても有名なエイブラハム・リンカーンが、『わたしは、人間の権利と同様に、動物の権利も指示している。そしてそれこそは、すべての人類が進むべき道である』と言っている。 

同じ人間でも性別や人種や階級の違いで、権利が認められなかった時代があったように、権利を拡大することは愛の実践であり、平和につながる。 
例えば、強い立場のものが弱い立場のものの生きる権利などを剥奪し奴隷化することは、よくないことだと現代人は知っている。それと全く同じで、動物たちは、「生きる権利」を人間から剥奪され、家畜化(奴隷化)されている。 

動物や家畜たちにも権利がある。 

「人間の権利」と同等の権利がある。しかし、現代の法律では「動物に権利」を認めていない。
山や海で自由に生きようとする動物に、社会は害獣のレッテルは貼っても彼らの命を守ることはしない。 

動物や家畜たちは、ショーをしたり、見世物にされたり、


もしくは人間の道具となるために、
もしくは食べられるために生まれてきたのではない。 



自分の身近にいる犬猫を悲惨な実験道具や食べ物として見ることができないように、その慈愛の目をほんの少しだけ他者に拡げることは困難なことではない。それは他者の権利を認めることで、権利の拡大につながる。そして、そういった人々が増えていくと、地球の未来は平和で希望に満ちていくだろう。 

わたしは菜食を実践している。 
もしもカナダのハイカーのような立場になったとき、もしくは極度の空腹状態になったとき、「動物は食べ物ではない」という意識と習慣が、私をむやみな殺生から遠ざけてくれるだろう。 

「菜食」は暴力をとめる「食事」であり、
ひとりでしずかに実践できる愛の平和行動である。

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