2018年8月2日木曜日

窓際からの独白① ー変だけどヴィーガニズムー

ワタシはもともと影響を感じやすいタイプだった。
他人の感情も感じやすかったけど、今思えば「アレは霊障か」というような「物の怪」に悩まされたこともあった。

そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかった。

気持ち悪い感覚が自分の中から沸き起こるのか、外から入ってきた感覚なのか、その感覚の持ち主が判らないまま、その感覚に支配されていく自分がイヤだった。

例えば、
映画館で流行のバイオレンス的な映画を観た後、自分的には「後味の悪い、観なければよかった」的な映画の感想をもったにも関わらず、急に「ヒトを殺してみたい」というワクワクした感覚がやってくる
とか
スーパーで買い物の途中、知らない客の女性とすれ違いにホンの少しだけ触れてしまった瞬間、それまで思い付きもしなかったのに、エッチしたくてしょうがなくなるくらい体がほてった
とか
お稲荷さんの神社に御詣りに行った夜、ワタシの寝所で走る廻る四つ足の動物をいつしかワタシの中に飼ってしまい、なかなか出て行ってくれず困った
とか
観光名所と言われる滝を観にいった夜、ワタシの寝所の窓にこの世的でない人々が次から次にやってきて、なかなか去ってくれないものだからガラス越しに朝まで睨めっこをした
とか
下宿先の部屋に首を跳ねられた武士たちが交替で毎夜やってきて、ワタシの幽体を欲しがるので、ソレに抵抗するために睡眠不足になった

とか、あげればキリがない。

そんな話を人にすると、「いいわね、自分も幽霊に会ってみたい♥」「思い過ごしじゃない?」「ウソだろ」「へぇ〜そんなことがあるんだね」

当然のことながら「人ごと」である。
悲しくなる。だから、なんで話したんだろう?と考える。悲しみから這い上がるために、もっとよくよく考えると、ワタシの中に「誰かどうにかして…」という依存心の他に「ワタシってアナタたちとちょっと違うのよ」的な優越感を見つけることができる。

そんな自分を見つけてガッカリして、さらに悲しくなる。立ち直りたくもない。
しかし、状況は何も変わらずお化けたちはコトある度にワタシのモトにやってくる。

せめて「お化け」からは解放されたい。

そこからワタシのスピリチュアル勉強が始まった。
ネットもなければスマホもパソコンもない頃のことで、しかも世の中にスピリチュアルなんて言葉も商売も氾濫してなかったし、バシャールなど知る人ぞ知るだったころの大昔である。

そんな大昔はワタシだって見えるモノしか信用しなかった。
他の人だってそうだろうと思う。
他の人に見えない聞こえないものがワタシには見えたり聞こえたりするのは、ワタシだけの事実で他の人に判るはずもない。信用するはずがなかろう。
しかし、このワタシだけの事実を社会で貫き通すと「狂人」扱いになる。ワタシは一般人で「奇人・変人」でもない。

一般人であるワタシは、お化けから解放されるために、あの手この手を使った、その手のカルチャースクールなどないから自分なりに学んだ。
独学というより、「コレでお祓いできました」と言われるものは、実験だと片っ端から試した。確かに祓われる。
祓われた時の解放感というか「雲ひとつない晴れ渡る空に身を置けた」伸び伸びした感覚は気持ちがよい。

そして、
お化けから解放されながら、ワタシは原因を究明した。
原因が判らなければ、結局は違うモノに取り憑かれるだけなので、状況は変わらないに等しい。

たくさんのお化けと長年付き合ってきた。
そんなしなくてもよい経験から学んだ事は、「ワタシはお化けから解放された」というより「ワタシはワタシの中からお化けを解放した」のほうが感覚的に正しいということ。

くだらない答えだった

しかし、「自分の潜在意識がお化けを呼んだのだから、結局は自分自身の責任なのよ」と言われては困る。
責任なんて誰にもナイ。お化けにもワタシにもアナタにもナイ。
責任という言葉は「人のせい」にするためにできた言葉としか思えない。
弱者に重くのしかかり、動けなくしてしまう「言葉」としか思えない。

「お化け」のおかげで、「解放術」を学べた事はありがたい。
しかし、長年かけて学んだ「経験」からの「知識」なのだが、社会的なスキルにはならないので、せっかくの「実績」でも喰っていく役にはたたない。
しかも、解放術に没頭するあまり、この世的なスキルや実績を積むことを忘れ、思い出したら、実績を積むには遅過ぎる年齢に達していた。
いつのまにか結婚相手も同棲相手も逃げ出していたので、居ないツレアイに頼ることもできない。かといって自立しているわけでもない。ワタシはとても弱い存在だということが改めて判る。バカみたい。


世の中疲弊することだらけ
なんでわざわざ生きているんだろ?
なんでわざわざ死ぬんだろ?
どうせ喰っていけない技術なら、そのスキルを「自分を自分から解放する」に使ってみてはどうだろう?少しは死ぬ意義があるかもしれないだろう?と自分自身にひねくれてみる。

ただ…
相変わらず…
もともとの影響を感じやすい体質を変えることはできなかった…

たしかに、現実に存在しない「モノの叫び」は聞こえなくなった
しかし、現実に存在する「モノの叫び」が、よりクリアに聞こえてくる
その叫びに胸が締め付けられ、夜涙することさえある

ワタシが泣いているのか、牛が泣いているのか、わからなくなる

ワタシは肉や魚を食べることができないし、乳製品や蜂蜜も食べることができない、哀しくて苦しくなる。そして、そのモノたちから奪った「この世にあふれ過ぎた商品」を使うには気合いがいる。

そんなことを人に言っても、当然のことながら「人ごと」である。
悲しくなる。だから、なんで話したんだろう?と考える。
世の中を変えるつもりなど毛頭ないけど、世の中疲弊することだらけ
ワタシにも社会にも成長などナイ。

希望的に人生を考えるならば
ワタシは闘争と惰性だらけの社会のなかに愛を捜す旅をしているのかもしれない
愛が見つからなければ、ワタシが愛になればよい
シンプルな回答だが絶対的に不可能…。
ホントは希望などどこにもない
皆ソレを知って判って生きている
ワタシはワタシの魂を抱え闇に堕ちる。