鶏肉を卵でとじて、どんぶり飯にのせた料理を「親子丼」という。
子供のころ、このネーミングの意味がわからなくて、近所のおばちゃんに尋ねた。
「鶏の子供は卵だからよ」
幼いわたしは、母といっしょに細かく刻まれ、どんぶりの中で混ぜられることをイメージしてしまった。
怖いというより、とても悲しくて、親子丼の鶏と卵がかわいそうで食べることができなくなった。
ちなみに、豚肉や牛肉を卵でとじたものは「他人丼」というらしい。
他にも驚愕ネーミングに生き物を生かしたまま調理し提供する「活き造り」。
激しい痛みと恐怖を感じ、食べられないどころか、この「拷問料理」の罪の意識にさいなまれる。
肉のネーミングにいたっては、豚肉、牛肉、鶏肉、鹿肉、馬肉……。
けがれなき瞳をもつ彼らの愛くるしい姿を想い起す心にフタをしなければ、食べモノだとはとても認識できない。
英語の肉のネーミングは、直接的に動物をイメージしにくい。
例えば…
豚pig →豚肉pork
牛cow , ox , cattle →牛肉beef
羊sheep →羊肉mutton
鶏hen →鶏肉chicken , fowl
諸説理由はあるが、肉を食べることは野蛮な行為で、「禁」を犯すことだから、名前も料理も一工夫した。
ちなみに…
馬肉horse meat /鯨肉whale meat /犬肉dog meat /熊肉bear meat
「動物+meat」こういった肉を食べるのは野蛮人だといわんばかり。
人肉は、human flesh
「flesh」は、果肉の意もあるからか、horse meatやwhale meatは野蛮だが、human fleshを食すのは野蛮ではないかも…
冗談ではなく、人間が肉食を始めたきっかけを考えたとき、
それは、人肉だったように思う。
太古の生贄は人間。
お下がりは、当然のごとく祭司をはじめ皆で喰った。
生贄は、手に入りやすく、安全な肉でなければならないからこそ、人間だった。
しかし、人間を殺すことは非文明的だと誰かが言い出し、代替えは動物になった。
お下がりを食べたいから、人と同じくらい旨い羊や仔牛や豚を使った。
宗教的行事とは別に、飢饉のときもあったろう。飢えをしのぐのに、腹ぺこの状態で危険を冒して、旨くもない獣を狩っただろうか?
共食いは当然のように行われていた。
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人間は「種差別」をすることで、肉食ができると思っていたが、どうもそうでもないようだ。
近親の死者への愛着がカンニバルをさせ、その愛惜を忘れさせるほど、肉は旨かった。
果たして、スピーシズムの壁を取り払うことが「平和」への早道なのだろうか?