2013年8月21日水曜日

大事な約束

今からお話しすることは、ヒミツ。
ワタシの大事なおともだちから、こっそり聞いたかお話だから…。

動物には、どの種にも「神」がいます。
イヌの神様や、ネコの神様、ウシの神様がいるのです。
人間の場合、一人ひとりの個人が「自我」という名の神をもっています。
動物たちは、個体としてではなく、集合体としてひとりの「神」をもっています。
それらの神様たちが、大昔、人間の代表と話し合ったのです。
旧約聖書の時代のことです。


ありとあらゆる存在が、人間に希望を託していました。
人間だけが「新しい可能性」を持ち帰ってくれると信じていました。
それほど「古い世界」は停滞していたのです。
これ以上、先には進めないところにまで来ていました。


そこで、動物の神さまたちが、人間に言いました。
「わたしたちは、あなたがたが地上で生き続けられるように、個体として自我をもつのをひかえましょう。」
それを聞いて、植物の神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、動物と人間が地上で生きられるように、感情をもつのをひかえましょう。」
最後に、石ころの神さまたちが言いました。
「それでは、私たちは、一切の意志をもたず、すべての意識を放棄して、あなたがたの材料になりましょう。」

すべては、動物が「自我」を断念したところから始まったのです。


それは大変な犠牲でした。


彼らは人間によせる愛と希望ゆえに、人間を信じてそう決意したのです。

人間が、自分たちは動物よりも進化しているとか、優れているとか思ったとしたら、
それはおそろしく愚かな思い上がりなのです。
動物たちのほうが、人間よりもはるかに高貴で、崇高な精神をもっています。
それゆえに、動物たちは人間を先に行かせたのです。
だから、人間には、動物にはもちろん、植物にも、鉱物(石)にも、つまり地球全体に対して責任があるし、彼らの思いに応えて、果たすべき使命があるのです。


動物たちは、人間が真の自由(新しい可能性)を獲得するまでには、長い長い道のりがあることを知っていました。
動物たちが自我をもってしまったら、肉食(動物たちを食べること)は「共食い」ということになり、人間は果てしない罪を抱え込むことになります。
それを避けるために、動物は自我を断念したのです。
そして、植物は、ひたすら食物や薬物として働けるように、「感情」を断念しました。




人間が他の動物の肉を食らうのは、まだ真実を見るだけの力がないからです。
肉食への欲求は、真実から目を背けようとする欲求なのです。

動物は、人間と同じで「感情」をもっています。
襲われたり、殺されそうになったり、拘束されたりすれば、当然、恐れや悲しみの感情をもちます。

人間は、肉を食っているようでいて、動物たちの感情を食っているのです。
その感情はヴェールのように、人間の認識の力を覆います。
肉を食べるということは、それだけ自分を「見えなく」しているわけです。

でも、それは、肉食の人たちが「真実」を見ることに耐えられないからです。



しかし、いつかは人間も真実を知らねばなりません。
自由な存在として、この地球をすべての存在にとっての「故郷」となすということです。
「ふるさと再建」です。
それは「個体としての自我の自由」を発揮するということ。
人間は、自分の意志で肉食から離れなければなりません。
けれど、その決意は、一人ひとりの人間の内から生ずるのでなければ意味がないのです。
そうするためには、人間はもっともっと主体性(自我)を育てなければなりません。


そのために「感情を認識の道具にする」ということです。

だからといって、怒ってはいけない、感情的になってはいけない、ということではないのです。感情はいくらでも持ってよいけれど、それを否定しない、押し込めたり、せき止めたりせずに、流していく。感情の流れをせき止めてしまうものが、「自分へのこだわり」です。感情をただひたすら流していって、その感情をてがかりに、自分を知り、世界を知るということ。


感情は、「感じる力」でもあります。
世界に対して、無関心になるのではなく、世界の1つひとつの現象に対して、感情が働き、「自分が感じる」こと。
それを恐れずに、自分の感情を自覚していれば、それによって「自分は何者か」がわかっていく。自分という人間は、何に怒り、何に悲しみ、何を喜ぶのかがわかっていく。

「世界認識」と「自己認識」は同時に起こるのです。
そのとき、人間は、動物、植物、鉱物(石)と約束した使命を果たせるのです。


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